第108話 海路で帰る話をする
翌々日。
かれらは、シノペ系の町の盟主であるシノペ本国から送り込まれてきた使節の言葉は、恐ろしいほどに礼儀正しく、そして慇懃だった。
会談の場となった天幕の卓上には、使節団が持ち込んできた上質な葡萄酒の壺や、美しい細工の施された贈答品が並べられている。天幕の隙間からは、コテュオラ港に広がる白い帆の群れと、穏やかな海のきらめきが覗いていた。
「東方の奥地からアケメネス朝の包囲を破り、よくぞここまで生還された、誇り高き同胞諸君。シノペ市民を代表し、諸君の不屈の勇気に心からの祝意を表したい」
使節の男は、教養あるギリシア語でそう言って、新将軍クセノポンたちに向けて恭しく一礼した。山を越え、泥に塗れて進んできた将軍たちにとって、それは久しく耳にしなかった「文明人の賛辞」だった。
だが、その美しい歓迎の辞の行間から透けて見えるのは、純然たる親愛などではなかった。
レオン・カルディアスは、卓の端で羊皮紙の地図と船数の控え、そして塔で書写した古い地理誌の川幅の記録を広げながら、目の前の使節を冷ややかな目で見つめていた。
なるほど、同胞への愛だの義理だの、言葉だけならいくらでも整っている。だがこの男たちの本音は、ここコテュオラや自分たちの支配領域をこれ以上荒らされたくない、ただそれだけだ。一万に迫る腹を空かせた敗走軍が居座り続けるなど、都市からすれば喉元に突きつけられた青銅の剣も同然なのだから。
使節の男は、卓上の葡萄酒に視線を落としながら、滑らかな口調で本題を切り出した。
「我々は諸君の味方であり、無事の帰還を誰よりも望んでいる。だからこそ、専門の実務官としてあえて進言をさせていただきたい。――ここから先、陸路を進むのは絶対にやめるべきだ」
使節は、レオンが広げている地図の上、ここから西へ続く沿岸の山々を指差した。
「この先の陸路には、獰猛なパフラゴニア人の領地が広がっている。彼らの騎兵は果敢であり、険しい地形を味方にして諸君の行く手を阻むだろう。それだけではない。陸路を行けば、テルモドン川、イリス川、そしてハリュス川という、三つの巨大な大河を渡らねばならない。いずれも川幅は広く、渡河不能の難所だ。自前の荷駄や船も持たぬ諸君が、パフラゴニア人の矢の雨を浴びながらこれらの川を渡るなど、不可能なのは明白だろう」
使節の言葉に、クセノポンや百人隊長たちの顔が険しく曇った。
川の名前が出るたびに、脳裏にあの過酷なケントリテス川での凍えるような渡河戦の記憶がよみがえるのだ。川幅が広く、足場が死に、後ろから敵に突かれる恐怖。それをまた三度も繰り返すなど、兵たちの気が萎える(士気が低下する)には十分すぎる脅しだった。
「ならば、どうすればいいと思われますか?」
クセノポンが静かに問いかける。
使節の男は、待ってましたと言わんばかりに、港の海を大きく手で示してみせた。
「海路を選ぶべきだ。海なら行ける。シノペからヘラクレアへの航路は安定しており、船を使いさえすれば、パフラゴニア人の槍も大河の濁流も、すべて飛び越えて安全に帰ることができる」
海なら行ける。その響きは、甘い葡萄酒のように天幕の空気を満たした。
確かに、これまでの泥道や雪山を歩き続けてきた兵たちにとって、船の甲板に揺られているだけで故郷へ近づけるという提案は、極上の奇跡のように聞こえるはずだった。
「使節殿」
レオンは、手元の計算盤の木枠を指先で弾きながら,極めて丁寧な、しかし冷徹な数字の事実をその場に滑り込ませた。
「お言葉は大変ありがたく、また理にかなっていると感服いたします。ですが、それは船が全員分あれば、という条件付きの話ですよ」
天幕の空気が、ふと静まり返った。
「何を言うんだ、兵站監。海路の方が安全だと言ってくれているだろうが」
後ろに控えていた重装歩兵百人隊長が、不満げに鼻を鳴らした。
レオンはそれを一瞥もせず、使節の男に向けて尖筆の先を示した。
「使節殿。我が主計局の厳密な算盤によれば,現在このコテュオラに残留している我が軍の総人員は、ケラススでの点呼を経て確定した武装兵八千六百,それに非戦闘員を合わせれば一万人に上ります。……これほどの大集団を、一度に海へ逃がすために必要な船の積載量を、あなた方は本当に計算されているのですか?」
レオンは、木札に書き留めていた船数の控えを卓の上に提示した。
「シノペやヘラクレアの商船をどれほどかき集めたところで、一万人を同時に運ぶだけの船倉を確保するのは至難です。もし海路という方針を無条件に受け入れれば、僕たちは『船に乗れる者』と『乗れない者』の配分問題に直面することになる。それは、軍の内部に致命的な不公平感と、置き去りへの恐怖という内紛の芽を植え付けることと同義です。
そしてそれは、一度やっただけで内部で相当揉めました。
今度は一足飛びに文明の中心地に帰れるかどうかです。
さらにもめるでしょう」
使節の男は、若い兵站監の口から次々と吐き出される,残酷な現物の数字の圧に,わずかに眉をひそめた。
海路は楽な道などではない。それは、陸路の「川とパフラゴニア人」という障害を、「船の確保と分配の痛み」という別の厳しい条件へと置き換えるだけの話なのだ。
正しい助言の裏には、必ずそれを勧める者の「都合」が混じっている。この男たちは、自分たちの領地から僕たちの槍を一日でも早く追い出すために、そして、少しでも減らすために、海路という美名で僕たちを追い立てようとしているだけだった。
「……もちろん、シノペの本国としても、諸君の生還のために可能な限りの船を手配する用意はある」
使節の男は、レオンの理詰めの視線から逃れるように,クセノポンに向けて言葉を整えた。
「本国に伝令を送り、ヘラクレアや近隣の港から商船を呼び集めよう。全員分の船を揃えるのは時間がかかるかもしれないが、方針を海路と定めてくれるならば、我々も実務的な協力を惜しまない」
「感謝する、使節殿」
クセノポンは重々しく頷き、使節の手を握った。
これで、方針は海路へと大きく傾いた。陸路の大河を避けるための、進路選択の具体的な形が見えてきたのだ。
これが、この会談で得られたものだった。
だが、それと同時に、胸の奥を重く焦がすようなもやもやもまた、確定していた。
使節は簡単に「協力する」と言った。
きっと彼らは「だめでした」と簡単に言うだろう。
「努力はしたんですが」と。
全員分の船が「確実に揃う」という保証はどこにもない。もし、出発の日になっても船の数が足りなかったらどうなるのか。そのとき、誰を船に乗せ、誰をコテュオラの浜に置き去りにするのか。その精算の重みは、他ならぬ帳簿役の肩にすべてのしかかってくるのだ。
道があることと、全員がその道を通れることは、全く別の問題だった。
会談が終わり、使節団が葡萄酒の壺を残して天幕を出て行った後も,レオンは地図の上の「ハリュス川」の文字を尖筆の先で睨みつけたまま動けずにいた。
頭の中で、最悪の配分計算がぐるぐると回り続ける。もし船が足りなければ、またあの重装歩兵たちの強欲な怒鳴り声と,軽装歩兵たちの不満に挟まれることになるのだ。
ぼくは、また誰かを傷つける名簿を書くことになるのだろうか。
「……レオン」
不意に、すぐ横から低く短い声が聞こえた。
見ると、ダフネがいつの間にか僕のすぐ傍らに立ち,卓の上に置かれていたシノペ側の贈答品である、美しい細工の施された大麦の餅のような食物を,僕の口元へと無言で突き付けていた。
長い慰めの言葉など、彼女の口から出るはずもない。ただ、交渉で消耗しきっていた僕の身体を,物理的な行動だけで現実に引き戻そうとしてくれているのだ。
「……ダフネ。それは、使節たちが置いていった物ですよ。毒でも入っていたらどうするんですか」
「毒はない。たぶんね。
彼ら、あんたの数字に怯えてた……全員って言ったね」
ダフネの感情の読めない目が、真っ直ぐに僕の手元だけを見つめていた。
「あんた、さっき『全員分』って使節に言った。一万人、置き去りにしないって」
「……ええ。言いましたよ。言ってしまいました」
レオンは、変な餅とパンのあいのこのような何かの塊をまずそうにかじりながら,自嘲気味に息を吐き出した。
秩序を維持するためには、例外を作ってはならない。一万人弱の全員を運ぶと言い切ってしまった以上,これからの帳簿予定には、一人たりとも「置き去りの数」を含めることは許されないのだ。自分で自分の逃げ道を塞いでしまったようなものだった。
「なら、私もそのつもりで守る。だから、今は食べて」
その短く切るような声音が,僕の凍りつきかけていた自制を、不思議なほど強く支えてくれた。
「そうですね。腹が減っていては、船倉の積載限界の計算も狂います。付き合わせて悪かったですね、ダフネ」
丁寧な口調のまま、レオンは葡萄酒の残りを喉へ流し込み、卓の上の地図を畳んだ。隣で槍の革紐を締め直している彼女の動作を見ながら,なにかが少しだけ解けていくのを感じる。
しかし、天幕の外からは、すでに不穏な「音」が広がり始めていた。
軍の使節たちが,会談の結果を触れ回るよりも早く、「次の移動は海路になるらしい」「船が手配されるぞ」という噂が、恐ろしい速さで野営地全体へと走り抜けている。
その希望の光は、兵たちを団結させるのではなく、誰が先に船に乗るか、誰がより多くの戦利品を持ち帰れるかという,新たな「欲」と不信の火種を、あちこちの陣幕の中に燻ぶらせ始めていた。
海で帰る話が始まった。だが、その帰還の道筋は、言葉の美しさとは裏腹に、人間の生々しい思惑と配分問題によって,さらに割れやすく、脆いものへと変質しようとしている。
レオンは尖筆を外套の下に収め,明日から始まるであろう、船数をめぐる兵たちの要求と圧力の嵐を予感しながら,暗くなっていくコテュオラの海のざわめきを、ただ冷徹に睨み据え続けた。




