補章15 嘘と計算盤と、将軍たち……主計局天幕でのたねあかし
都市の城壁から確実に「百歩以上」離れた平地。
レオンがコテュオラの使節に突きつけた約束通り、ギリシア傭兵団の天幕は、石造りの頑強な壁から十分な距離を置いて整然と並んでいた。
昼間の折衝によって勝ち取った、仮の静けさである。 だが、プロクセノス隊の主計天幕の中にいるレオンの胃袋は、未だに不快な引き攣りを起こしていた。
理由は明白だった。
昼間、覚悟を決めてついた大嘘の残響が、未だに生皮の靴の裏から這い上がってくるかのように、身体を微かに震わせているのだ。
「……ほら、レオン」短い声と共に、視界の端から、使い込まれすぎて、そろそろ中身が漏れてきそうな風情の皮袋が差し出された。
見上げれば、護衛のダフネが相変わらず無表情な顔で立っている。
「ダフネ、これは?」
「葡萄酒。水で薄めたやつ。
さっきから尖筆を握ったまま指先が震えてる」
「……それはどうも。
実務官としての自制を保っているつもりなのですがね」
レオンは丁寧な口調のまま自嘲気味に笑い、皮袋を受け取って喉に流し込んだ。冷たい液体が喉を通ると、ようやく心臓の爆音が一回り小さくなった気がした。
彼女なりの、確かな気遣いだった。
テオドルスは、二人のやり取りをチラと目にとめ、また計算作業に戻った。
ほっと、息を吐いたところで天幕の入り口を覆う粗末な布が跳ね上がり、夜の冷気と共に、数人の男たちが滑り込んできた。
「失礼するよ、兵站監殿」
入ってきたのは、将軍クセノポンだった。知識人らしい端正な顔立ちに、夜の火床の光が爆ぜて揺れている。
その背後には、珍しいことに重装歩兵の百人隊長カレスや主だった顔役が、渋い顔を並べて続いている。
なんとも、胃に悪い顔ぶれだった。できれば今すぐ寝たふりをしたかった。
「クセノポン殿……それにみなさんお揃いで......
このような夜更けに、主計の貧相な天幕へ何の用ですか? 明日の市場開設に向けた白木の割札なら、まだ削り出している最中ですが」
レオンは努めて冷静に、しかし隠しきれない動揺を混ぜて応じた。
クセノポンは、レオンの前にどさりと腰を下ろすと、悪戯っぽい目を向けた。
「いや、昼間の折衝の件でね。
コテュオラの実務官ども、門を閉ざしていた時とは打って変わって、恐ろしく神妙な態度で市場の割り振りを進めている。我が軍の規律に恐れ入ったというよりは……何やら、ひどく怯えているように見えてね。全軍を代表して交渉した私としても、理由を知っておきたいと思ってさ」
クセノポンの言葉に、別の百人隊長が、が腕を組んで鼻を鳴らした。
「俺もそれが聞きたくて、わざわざアテナイの将軍に付いてきたんだ。
おい、主計殿。あんた、最後にあの使節のクソジジイの耳元で何を囁いた? あの老人、あんたが離れた瞬間、完全に顔が蒼白になってたぞ。
重装歩兵が一万の槍を突き付けた時だって、あそこまで怯えちゃいなかった」
レオンは手元の尖筆を置き、深く息を吐いた。
どうせ隠し通せることではない。それに、この先の取引を円滑に進めるためには、指揮層にだけは「種明かし」をしておく必要があった。
「……大した話ではありませんよ。ただ、多少の『お化粧』と、覚悟を決めたウソをついただけです」
「お化粧?」
クセノポンが片眉を上げる。
「ええ。まず、僕が差し出したトラペズスやケラススの商会が発行したという支払いの木札ですがね。……あれ、中身はただの『未精算の預かり証』の控えです。シノペの本国に戻ったところで、確実に換金できる保証なんて……無くはないですが…良くて五分五分?……現時点では…帳簿上は一ミナたりとも余裕は存在しません」
「は?」 カレスが目を剥いた。
「馬鹿な。じゃあ、あの堂々たる損得の因果関係の数字は……」
「僕がそれっぽく並べ替えた、ただの数字の羅列です。
ただ、なんというかペルシアで負けた僕らの信用がどの程度確保できているか......そして、いろんなごまかしが入り込んでいる……本当に帳簿の付け方と、信用の仕組みが分かっている者が向こうに一人でもいれば、相当揉めたでしょうね……最悪あの場で僕の首は飛んでいましたよ。
まあ、幸いなことに、こんな世界の辺境に、まともに帳簿が読める実務官などいない……という僕の賭けが勝っただけです」
天幕の中が、一瞬だけ奇妙な沈黙に包まれた。
カレスは口を半開きにしたまま固まり、ミュロンは呆れたように額を押さえている。 そして――将軍クセノポンが、静かに肩を震わせ始めた。
「くっ……ふふ、ははははは!」
こらえきれなくなったかのように、クセノポンが腹を抱えて大爆笑した。知識人らしい端正な面影を台無しにしながら、天幕の天井が震えるほどの声を上げる。
「素晴らしいな、レオン・カルディアス! 一万の重装歩兵の圧力も、それを背景にした交渉者の手管も、なにもかもはねのける老実務官を、紙切れ一枚のハッタリで降伏させたというわけか! 家政の論理とは、これほどまでに強力な武器になるとはね!」
「笑い事じゃありませんよ、クセノポン殿」
レオンは本気で苛立ちを込めて睨みつけた。
「ぼくの心臓は、あのとき確実に数拍ほど止まっていましたからね。もしバレていたら、取引どころか、今頃僕らは城壁の上から青銅の槍を雨あられと浴びていたはずです」
「分かっている、分かっているさ。だが、最高だ」
クセノポンは涙を拭いながら、未だに愉快そうに喉を鳴らしている。
「はたから見てる分には、自信満々に見えたよ。あれは、気づくものはいないと思うな。
彼は、まだ、げらげら笑っている。
「しかし、主計殿」
別の古株の百人隊長が未だに信じられないといった様子で、身を乗り出してきた。
「帳簿のウソは分かった。だが、あのジジイが最後に青くなったのはそれだけじゃないだろ。何を言ったんだ?」
レオンは、葡萄酒の袋を仕舞おうと袋の口を縛っているダフネの横顔を盗み見ながら、小さく溜息をついた。
「……『ペルシア王の追手が、こんなところまでやってくるなんて残念だ』と、囁いただけです」
「……それだけか?」
「ええ。それだけです。
あの老人は、僕のことを『ペルシア王宮の内情に通じ、その追手の接近を事前に察知している少し訛りのある教養ギリシア語を操る謎の若造……つまり本当はペルシア人で、ペルシア王側の回し者』か、あるいは『ペルシア王のしわざにして彼らを皆殺しにするつもりの謎の若造』だと、勝手に勘違いして恐怖してくれたんですよ」
レオンの淡々とした説明に、今度は別の顔役が低く笑い声を漏らした。
「なるほどな。あいつら都市の連中からすりゃ、俺たち一万の傭兵だけでも災害なのに、その背後にペルシアの正規軍が迫ってるかも知れねえなんて思わされたわけだ。
しかも目の前にはペルシア王の手のものもいて、協力しないと皆殺しにするぞと、匂わせる……
そりゃ、笑顔で市場を開くわけだ。
さっさと飯を食わせて、追い出したいに決まってる」
「ええ。ですから、その後の『親族に似ていたので一族の挨拶を……』というのも、ただの適当な言い訳です。相手が勝手に深読みしてなんともいえない空気感になったのを見て、これ以上は危ないと引いただけですよ」
その百人隊長は、しばらく獰猛な笑顔を満面にうかべた後、自分の大きな盾の縁を叩いておお笑いし出した
「……くくくっ……わははは…」
「百人隊長殿。約一万の武威があったればこそ、ウソが効いたんですよ」
レオンは冷徹な算盤の論理に戻り、今度は見知ったカレスに目を合わせていった。
「僕たちの槍は、飢えれば味方の倉にすら向く。だからこそ、都市側は僕たちを災害として拒絶した。僕はただ、『計算可能な秩序、予見不可能な災厄』のどっちを選ぶか?という名の値札を両方につけて見せただけです。
……まあ、その……なにもかも藁細工ですがね」
「ははは! 実にいい!」
クセノポンは立ち上がると、レオンの細い肩を親しげに叩いた。
「実に見事な仕事だ、兵站監殿。
君のその『お化粧』のおかげで、兵たちは今夜、まともな宿営地で美味い食事を食えている。私からも礼を言うよ。……だが、そのウソ、次のシノペの使節が来たときにも通じるかな?」
クセノポンの言葉に、レオンの胃が再びきゅっと縮んだ。
「……勘弁してください。シノペの本国から来る使節ともなれば、流石にまともな主計官を連れてくるでしょう。
その時は、評価あるいは見解の違いですね.....と泥仕合に持ち込むのが精々ですね.」
「なんだ、やる気ではないか。
じゃ、それまでに次の『お化粧の手順』を組んでおくことだね。期待しているよ」
クセノポンは満足そうに微笑むとみなと一緒に、幕を出て行った。
嵐のような将軍たちが去り、天幕の中には再び、夜の波音と火床の爆ぜる音だけが残された。
ハッタリは成功し。
軍の空気も明るくなった。
将軍たちとの信頼も、奇妙な形で、よりふかまった。
いや、深まってしまった。
彼は気づいていない。
多分、将軍たちはもっと危ない橋を全方位にわたって(ついて)いるのだろう。
本質は、かれがあちら側の人間として更に認められてしまったという事なのだが、経験の浅い彼自身は、まだ、気づいていなかった。




