第107話 同胞の町にも門はある
ティバレノイの平地を通り抜け、僕たちの隊列が黒海沿岸をさらに西へと進んだ先に見えてきたのは、堂々たる石造りの城壁と、固く閉ざされた巨大な木製の門だった。
コテュオラ。シノペという大ポリスが支配するギリシア人の植民市である。
トラペズスとは違い、ギリシア人が住んでいるので見方によっては町ぽいと言えなくもないところではなく、自信を持ってギリシア人の町だと認められる町である。
つまり、世界の文明の中心地…その辺境にまで帰って来れたわけだ。
へんな文章だけども、ぼくらの感覚的には、こんな感じだ。
遠くからアクロポリスの神殿が見え、見慣れたギリシア様式の家々や倉庫の屋根が視界に入った瞬間、行軍に疲れ果てていた兵たちの間に、一気に歓声が沸き起こった。
「ギリシアの町だ!」
「言葉が通じるぞ! これでやっと、まともな宿営地で美味いパンが食える!」
兵たちの気が一緩みに緩んでいくのが、遠くからでも目に見えるようだった。
彼らにとって、同じ言語を話し、同じ神々を祀る同胞の町にたどり着いたということは、無条件の歓迎と安全を意味していたのだろう。
だが、その気の緩みこそが、一番始末が悪い。レオン・カルディアスは、すり減った生皮の靴で泥を踏み締めながら手元の配給帳を外套の下で強く抱え直した。
現実は、能天気な期待ほど甘くはなかった。
コテュオラの城壁の上には、きらめく青銅の兜を被った市民兵たちがずらりと並び、こちらに向けて幾重もの槍の林を突き付けている。門の隙間からは、住民たちが戸口を固く閉ざし、倉庫の閂を下ろす鈍い音が、響いてくるかのようだった。
城壁の死角からは、現地の小さな子供たちが、変なものを見る目でこちらの汚れ果てた大軍を遠巻きに見張り、母親らしき女に手を引かれて家の中へと逃げ込んでいく。
同胞の町にも、門はあるのだ。
それも、これ以上ないほど強固に閉ざされた門が。
「……どういうことだ……兵站監殿、わかるか?」
隊列のあちこちから不満と困惑の声が上がる中、重装歩兵の百人隊長カレスが、不機嫌そうに…しかもわざわざぼくのところまで来て…盾の縁を鳴らしながら歩み寄ってきた。
「なぜ同じギリシア人の町が、俺たちを締め出すような真似をする。俺たちは略奪をしに来たわけじゃない。ペルシアの奥地から死に物狂いで生き延びてきた,誇り高き同胞をもてなそうって気はないのかよ」
カレスの言うことは、兵たちの本音そのものだった。同じ言葉が通じるからこそ、拒絶されたときの反発は大きくなる。
とはいえ、レオンからしてみると…知らんよそんな事…でしかない。いや、あるいは、少し頭使えばわかるでしょ?か…
「カレス殿」
レオンは極めて丁寧な、しかし冷徹な棘を隠さない声音で応じた。
「それは、こちらの勝手な言い分というものです……あなたなら、平和に暮らしている自分の町に、髭面で血生臭い槍を持った一万人弱の武装集団が突如として押し寄せてきたとき,笑顔で門を開けて彼らを我が家へ招き入れますか?」
「それは……」
「コテュオラの市民から見れば、今の僕たちは『生還した英雄』などではありません。町を食い荒らし、秩序を破壊しかねない、ただの巨大な災害になるかもしれない何かです」
本当は、事前に走った伝令なりが交渉に行ったはずだ。
失敗したとは聞いていなかったから、最後の妥結で揉めたのだろう。多分、あのポリスのあれもある種交渉の延長戦なのだ…なのだが、説明するのがめんどくさかったレオンは、適当に韜晦することにした。
カレスは口を濁らせ、忌々しげに城壁を睨みつけた。
住民たちの冷淡な態度に腹を立てる兵たちの気持ちも、理解はできる。だが、それ以上に「大軍の流入」を恐れて戸口を閉ざす町側の理屈も、レオンには分かりすぎてしまうのだ。
多分、向こうの申し出は、町に入るな…だったのだろう。
それをこちらの交渉担当は、説得できなかったと見るべきか。
古い対話に関する書物の中に、この状況と似たような言葉があった。
いわく『不和とは、利害のズレから生じる』と。言葉が同じであろうと、置かれた立場が違えば、見える現実は正反対になる。強者としての「必要」と、弱者としての「恐怖」は両立してしまう。それが理解できるからこそ、胸の奥が酷くつらかった。
やがて、固く閉ざされていた城門がわずかに開き、数人の男たちがこちらへと歩いてきた。
コテュオラ側の市民代表、そして使節の男たちだ。彼らの先頭に立つ老人は、使節の杖を厳かに掲げ、冷徹な目を僕たちの陣へと向けていた。
「我々は、シノペよりこの町を預かる実務官である」
老人は使節の杖を地面に突き立て、僕たちの前に立ちはだかった。
「大軍を率いる将軍たちに問いたい……あなたたちは、この町に平穏をもたらす『客』か。それとも、武力によって我らの倉を奪う『占領者』か」
その直截な問いに、士官たちの間に緊張が走った。
レオンには、事前交渉者が、完全にしくじったのがわかった。多分、足元を見られたくなくて脅したのだろう…悪手だ…とは、担当でもないレオンの無責任な感想だろうか…
全軍を代表して一歩前に出たのは、将軍クセノポンだった。彼はいつも通りの落ち着いた足取りで、しかしコテュオラ市民たちの恐怖を和らげるように、その美しい弁舌を響かせた。
「我々は、あなた方の倉を脅かす者ではない。王弟キュロスの遠征に従い、不運にも敗戦の辛酸を舐めたが、ただギリシアの海を渡り、故郷へ帰るための道を求めている自由市民の軍隊だ。同じ言葉を話す同胞として、我々の苦難を理解し、市場を開いて物資を取引することを許していただきたい」
名誉と義理に訴えかける、完璧な説得の言葉だった。だが、使節の老人の固い表情は、その美しい言葉だけでは少しも崩れなかった。
「言葉ならいくらでも整えられる。だが、お前たちの背後には、飢えた一万の槍があるのだ。物資の取引と言うが、その対価を支払うだけの銀貨が、本当にそのボロボロの袋に残っているのか」
老人の冷ややかな視線が、クセノポンの外套の破れへと向けられる。
言葉が詰まる。名誉だけでは、相手の倉を開ける鍵にはならないのだ。
「クセノポン殿、並びに諸将のみなさま。
越権ではありますが、多少、補給の領分でもあるので…僕の仕事と言ってもよいですよね」
クセノポンは、少しビックリしたような表情を浮かべたが、左右の幕僚や将官と目線を交わし、レオンに対してひとつうなずいてみせた。
先日、ミュロンにお化粧の仕方云々を、からわかわれてから、レオンの中で、色んなものが変わり始めていた。
レオンは一歩前に出ると、腕に抱えていた白木の支払いの木札を、使節の老人の前に厳かに差し出した。
「使節殿。あなた方の恐れはごもっともです。ですから、神義や名誉といった抽象的な話は一度横に置きましょう」
レオンは極めて事務的な、しかし極めて冷徹な算盤の論理で切り出した。
少し訛りのある教養ギリシア語で。
「我々が提示するのは、具体的な取引の秩序です。これをご覧ください。全軍の現在の正確な兵数、および必要な糧秣の勘定がこの木札にすべて整理されています。
これを持って、我らの兵站管理は揺るぎなく行われていることがお分かりいただけると思います。
我らは、秩序ある自由市民の軍です。
そして、我らがギリシアの自由市民である証として、物資の買い上げに関しては、銀か、このトラペズスやケラススの商会で発行された、正式な支払いの木札を用います。
これがあれば、シノペの本国に戻った際、確実に銀ミナあるいは望むならダレイスコス金との換金が保証されます」
老人が使節の杖を握り直したまま、レオンの差し出した木札の数字を凝視した。
そこに刻まれているのは、感情論を排した、純然たる損得の因果関係だった。
しかも、支払い余力があるように、レオンがお化粧をしまくった…
世間ではこれを粉飾と呼ぶ。
これはレオンのかけだった。
本当に帳簿がわかるものがいれば、このウソはすぐにバレるだろう。
だが、こんな辺境にまともに帳簿がわかるものなどいない…いないといいな…と後でクセノポンあたりが聞いたら、目を向いて…そのあたで、大笑いしそうな話を考えていたのだった。
「さらに、兵たちの宿営場所に関しては、都市の城壁から確実に『百歩以上』離れた平地に制限します。
市民の家や倉庫への立ち入りは一切禁止し、違反した者は我が軍の規律によって厳罰に処します……あなた方は、この条件の取引によって生じる『確実な経済的利益』と不条理な戦闘によって生じる『町全体の瓦解』のどちらがより都合がいいですか?」
老人の顔は険しさを深めた。
不愉快さが表に出ていた。
そしてレオンは一歩、二歩、老人に近づいて囁いた。
「残念な事です、ペルシア王の追手がこんなところまでやってくるなんて…」
レオンの丁寧だが棘のある折衝に、使節の老人は初めて小さく息を呑んだ。
よくわからない薄汚れた若造…少し訛りのある教養ギリシア語を操る若造が、無表情とうすら笑いの間みたいな表情で、妙なことを仄めかしたのだ。
その後、彼はこう言った。
「大変失礼致しました、私の親族に似ておりましたので、一族だけにわかる挨拶をしただけだったのですが…いや、不調法を致しました…」
老人の顔は蒼白になった。
美しい弁舌には警戒を強めていたコテュオラの実務官たちもレオンが提示した「数字」と「支払い保証」という現実的な条件を前にして、ようやく感情的な拒絶を収め、利害関係の交渉の席に着く覚悟を決めたようだった。
「……分かった」
老人は使節の杖を静かに引いた。
「その木札の条件が守られる限り、市場の開設と、指定地での宿営を許可しよう」
都市との折衝の場が開かれた。話せる相手を作り出した。
だが、それと同時に、胸が痛むほどの現実もまた、僕たちの前に突きつけられていた。
同じギリシア人であるという同胞性や地獄のような敗戦を生き延びてきたという苦労の物語は、彼らの倉を開ける鍵にはならなかった。
結局、僕たちが生き延びるためには、どこまで行っても「支払い」を冷徹に精算し続けなければならないのだという現実が配給帳の重みとなってレオンの肩にのしかかる。
「……ほら、これ」
使節たちが城門の奥へと引き上げていくのを見届けた直後,すぐ横から無言のまま、硬いパンの塊が差し出された。
見ると、ダフネがいつの間にか僕の隣に立ちたぶんティバレノイで手に入れた残り物の固いパンを僕の手に押し付けていた。
「ダフネ。これは?」
「あんたの分。交渉中、ずっとお腹の音が鳴ってた。格好悪い」
相変わらず一言多い辛口な護衛だったが、彼女なりの、確かな気遣いだった。
そして…山を越えてから、やっぱりずいぶん口数が増えている。ただ、どんどん護衛らしくなくなっていってるのは間違いない。
まるで、出来の悪い弟の面倒を見る姉のようになっていた。
「……それは失礼しました。木札を削るのに夢中で,胃袋の管理を怠っていましたね」
自嘲気味に笑いながら,僕は固いパンをかじり、葡萄酒の残りで喉の奥へと流し込んだ。パンの味は素っ気なかったが、強張っていた胃の腑が、ようやく少しだけ息を吹き返すのを感じる。
しかし、仮の静けさは長くは続かなかった。
宿営地の設営を始めようとしたそのとき、伝令官の慌ただしい足音が、港の方から響いてきた。
「伝令!兵站監殿! 背後の母市、シノペの本国から、我が軍の動向を警戒する使節の船がこちらに向かっているとの知らせです!
明日明後日にも到着する模様。
将軍たちから兵站監殿にも知らせよとのことでしたので、参上しました!」
レオンの背筋に、再び冷たい緊張が走った。
コテュオラだけの利害では収まらない、背後にある巨大な母市の政治的重圧が、すでに海を渡ってこちらへ近づいてきているのだ。
海はある。
だが、その海の向こうからやってくるのは、帰路を開く船だけではない。
レオンは手元の配給帳を外套の下に収め,次なるシノペの使節がどのような政治の罠を持って僕たちを縛ろうとするのかを,まだ見えぬ水平線の彼方に、ただ冷徹に見据え続けた。




