第106話 戦うよりも
蛮族との戦いはあっけなく終わった。
その後ぼくらは、満足がある程度できる報酬をてにして、期間の旅を続け、平野部に出てきていた。
目の前に広がるティバレノイの平地は、それまでに通り抜けてきた険しい山地とは異なり、穏やかな海の輝きをその懐に抱いていた。
海辺に築かれた砦の城壁はそれほど高くもなく、背後に控える村々からは、よく肥えた家畜の鳴き声や、刈り入れを終えたばかりの穀物の匂いが風に乗って漂ってくる。雪山で凍傷に怯えていた時期ならいざ知らず、五体満足でここまでたどり着いた兵たちの目には、その豊かな景色がまったく別の輝きを帯びて映っていた。
すなわち、戦利品という名の、生々しい欲の対象としてである。 「主、いや、兵站監殿だったな」
隊列のあちこちで未使用の槍が不穏な金属音を立てる中、重装歩兵の現場指揮官であるカレスが、革紐の緩んだ胸当てを苛立たしげに叩きながら近づいてきた。彼の背後には、いかにも腹を空かせた、そして懐の寂しい下士官たちが数人、値踏みするような目で砦を睨みつけながら控えている。
「あの砦の城壁を見てみろ。我が隊の重装歩兵が本気で盾の列を並べれば、半日もかからずに突き崩せる。攻め落とせば、次の町までの干し肉も大麦も自前で手に入るんだぞ。兵たちも手ぐすね引いて待っている」
カレスの言葉には、剥き出しの飢えと、ここのところの町や港の市場で足元を見られ続けたことへの不満が混じっていた。
かつての山越えであれば、「生き延びるために」という大義名分があった。だが、ここでは違う。戦わなくても通り過ぎることはできるのに、「奪えば取り分が増えるから…どうにかして揉め事を起こしたい」という、実に嫌な空気が野営地を支配し始めている。
軍の山賊成分は、日に日に上がっていく。そのうち「お頭」とかいうことになるのかな…とどうでもいいことが頭をよぎる。
そして、兵たちの懐事情もわかってしまうのだ。
彼らは、飢え死にはしないまでも、このまま地元に帰ると借金奴隷に落ちそうな…それも、そこそこいそう…というのもすけてみえていた。
(だよなぁ…蛮族の生活なんかより…自分と仲間の奴隷落ちを気にするよな…)
とはいえ、散々略奪をしてきているし、敵も問答無用で先に襲いかかってきたりしていたのだ、まあ、どっちもどっちといえなくも無い。
「カレス殿」
レオンは、使い込んだ…あちこちインク染みのついた配給卓の上で、兵数の控えが書かれた木札を静かに整えながら応じた。口調の丁寧さを崩すことはない。
「攻撃の進言
など、僕の権限の範囲外(戦闘指揮権は無い)ですよ。
それに、我が主計局の帳簿によれば、現時点での無用な戦闘は消耗を招くだけです。
ここはどっしりと…」
「成算ならある!
あんな貧弱な砦、敵じゃねえ!」
「戦力差の話をしているのではありません。損得の話をしているのです」
レオンは尖筆の先で、木札に刻まれた「八千六百」という現在の戦闘員数をトントンと叩いた。
「確かに、攻め落とせば目先の穀物袋や家畜は手に入るでしょう。ですが、戦えば必ずこちらの槍も折れ、防具の革紐も切れます。傷病者が増えれば、それを運ぶ担架や駄獣の割り振りが破綻する。目先の戦利品と、それによって生じる維持費のズレを、見越してみると…上手く立ち回らないと、借金が増えちゃいますよ」
カレスは「理屈ばかり並べやがって」と苦々しげに顔を歪めたが、借金という言葉に敏感に反応した。
ギリシア世界の端まで辿り着けたおかげか、生きのびるという言葉しか無い状態から、損得という言葉が、兵たちの頭に帰ってきていた。
そのとき、言葉を遮るように、陣の中央から厳かな角笛の音が響いた。
将軍たちの天幕の前では、占者による供犠が執り行われていた。
引かれてきた牛の喉が傷治師の刃で割られ、鮮血が大地を染める。占者がその腹を開き、取り出された肝の兆候をじっと見つめた。
兵たちが固唾を呑んで見守る中、占者は重々しく首を振った。
「不吉である。神々は、この地での戦闘を望んでおられない」
その神託が下された瞬間、広場には大きな落胆と、怒りを含んだざわめきが広がった。
「また占者の奴が邪魔をしやがる!」
「神様は俺たちに干し肉を食わせたくねえってのかよ!」
兵たちの不満の声が容赦なく上がる。ギリシアの軍隊にとって、供犠の判断は絶対的な命令系統の拠り所だった。だが、それは決定を簡単にするための便利な道具などではなく、むしろ「戦いたい兵の欲」と「戦わせたくない指導層の成算」が激突した際の、責任の置き場として機能していた。
クセノポンやケイリソポスといった将軍たちも寝不足の目を険しく光らせたまま、この兆候を理由に「攻撃中止」の判断を下そうとしていた。
その判断が正しいことを、レオンは誰よりも理解していた。
ここで無理に戦ってティバレノイを血の海に染めれば、この先にある大きなギリシア都市、コテュオラに僕たちの悪名が先に届くことになる。大軍が略奪を働きながら近づいてくるとなれば、彼らは門を閉ざし、市場の倉庫に何重もの鍵をかけるだろう。
信用を一度でも損なうことは、次のポリスでの補給線が途絶することを意味していた。目先の家畜を奪うために、この先一ヶ月の生存線をすべて成り立たなくさせるなど、愚行の極みでしかない。
「納得いかねえな」
重装歩兵が、槍を地面に突き立てながら、レオンを睨みつけていた。
「なぁ、兵站監殿。あんたのその帳面がありゃ、戦った後でもなんとでも調整できるだろうが。攻めれば取れたんだ。それだけの事実を、神託だの信用だので誤魔化されて、黙って歩かされる兵の気が萎えるのが分からねえのか」
(理屈ではない世界だな、そして収まりどころが無いのだろう)
レオンは、羽虫の飛ぶ生臭い潮風の中で、一呼吸を置いて応えた。
「取れますよ、たぶん。あなた方の槍なら、目の前の砦を蹂躙することなど造作もないでしょう」
一瞬だけ相手の武勇を認めるように言葉を置いてから、レオンは極めて冷徹に棘を突き刺した。
「そのあと、次の港が閉まります。僕たちが略奪者の群れとして扱われ、家政の取引を一切拒絶されたとき、あなたはその折れた槍の先端を、兵たちの空の胃袋に詰め込んで満足するのですか」
彼は息を詰め、それ以上は何も言えずに、ただ悔しそうに卓を睨みつけた。 膠着した空気を動かしたのは、砦の側から開かれた門だった。
ティバレノイの使節が、白い杖を掲げながら、数頭のよく肥えた牛と、大量の葡萄酒の入った皮袋、そして大麦の袋を伴って陣へと近づいてきた。
戦う意思がないことを示す、最大級の贈答品だった。
「友好の地として、我が領内を無傷で通過されたし」
通訳を介したその言葉が野営地に布告され、軍の新指導層はそれを受け入れることを即決した。
戦わずして、最低限の糧秣が手に入る。これこそが、我が軍の損耗を最小限に抑えるための最善手だった。
ティバレノイの砦の門は閉じられることなく、僕たちの長い隊列を静かに受け入れるために開かれ続けている。
だが、それは同時に、「失敗」でもあった。
無傷での通過が許されたものの、手に入った贈答品は全軍で分ければわずかな量でしかない。
「戦っていれば、もっと取れたはずだ」
「あの倉庫にはもっと金貨が眠っていたに違いない」
行軍を再開した兵たちの間からは、そんな物足りなさと不満の声が、絶えず足音に混じって響いていた。勝てるかもしれない時に止まるという判断の苦さは、空腹の兵たちの背中に、じっとりとした嫌な重みとして残り続けるのだ。
「……はあ」
車列の乱れがないかを確認し終え、ようやく配給卓の端に腰を下ろしたレオンは、自分でも情けなくなるほど深い愚痴を吐き出した。
白兵戦の強さも、全軍を怯えさせるほどの強力な実技魔法も持たない自分が,ただ損得の計算だけで一万の利害を制御しようとしている。その作業の危うさに、背中が冷たくなるのを禁じ得なかった。
重装歩兵たちの言う通り、僕はただの、血の気の引いた臆病な帳簿役にすぎないのではないか。そんな自嘲の沼に沈みかけたとき、視界の端に、日に焼けた短い髪が揺れた。
ダフネが、いつの間にか僕のすぐ傍らに立っていた。
彼女は、戦わずに済んだことへ安堵している僕の顔を、その涼やかな目で見逃さなかった。
ダフネは無言のまま、ティバレノイ側から差し出されたばかりの、まだ新しい葡萄酒の皮袋を僕の膝の上に押し付けた。
「……ダフネ」
「死ななかった」
語尾を短く切った、それだけの一言だった。
「それが一番だ」
言い方は相変わらず雑で辛口だが,その一言が、僕の胸の澱みを驚くほど正確に払ってくれた。
そうだ。兵たちがどれほど不満を口にしようとも、今日の点呼で「返事のない名前」が増えることはなかったのだ。それだけで、この選択には、帳面を書き換えるに値するだけの価値があった。
「そうですね。死人が出なければ、包帯布の在庫を数え直す必要もありません。……まずい葡萄酒を飲む理由としては、十分です」
丁寧な言い繕いの行間に棘を混ぜながら、レオンは皮袋の栓を抜き、酸っぱい液体を喉に流し込んだ。隣で同じように硬いパンをかじり始めたダフネの横顔をみながら、少しだけ呼吸が整うのを感じる。
しかし、戦わない判断を選んだからといって、帰還の道が平坦になるわけではなかった。
平地を抜け、次の目的地であるギリシア都市、コテュオラへの行軍が続く中,前衛のラケダイモン系将軍ケイリソポスの方から,不穏な伝令の足音が響いてくる。
戦わずに信用を保とうとしても、大軍の流入を迎える都市側には、別の摩擦と利害が渦巻いているのだ。
レオンは手元の蠟板を外套の下に収め,次なるコテュオラの城壁がどのような「門」を持って僕たちを迎えるのかを,まだ見えぬ西の水平線の彼方に、ただ冷徹に見据え続けた。




