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ぼろぼろの負け戦をなんとかしてまあまあの負け戦にする方法――研究塔に残れなかった学者のなりそこないのサバイバル  作者: 方丈
BOOK Ⅴ:帳簿役、ギリシア人の世界に帰ってくる(けど、油断できない)
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補章13後編 木の王は塔から降りない

 尾根の幅は、重装歩兵の歩幅で五十人が並ぶのが限界だった。

 ケイリソポスは、泥にまみれた斜面と、その頂にそびえる木塔を冷徹な目で見据えていた。怒りに震えるカレスら重装歩兵たちの熱気が背後から伝わってくるが、将軍の心は氷のように静かだった。


 クセノポンの演説は、兵たちの耳を叩いた。

 そう、世界の中心たる栄光あるギリシアの兵であったはずが、いつの間にか、蛮族未満の烏合の衆になっていた。


「奪われた盾を取り返す。次は、盾の壁を作り、粛々と進む。ギリシア人は、規律と秩序で列を組み進むものだ」


 その言葉が終わるのと同時に、ケイリソポスは短く命じた。


「弓を前へ」


 ギリシアの弓兵たちが前列へ躍り出で、一斉に弦を引いた。鋭い矢の雨が、木塔の狭間や木柵の向こうへ降り注ぐ。同時に軽装歩兵たちが散開し、斜面の岩陰から投石を狙う敵の石弾兵を追った。

「軽装歩兵、散れ。追いすぎるな」

 敵の偽装退却を警戒したケイリソポスの制止の声が、前線に正確に届く。突出しようとした軽装歩兵たちが足を止め、再び配置へと戻る。


「盾を寄せろ。槍を低く」

 ケイリソポスは一歩ずつ歩みを進めた。

 彼の背後で、数千の重装歩兵たちが丸盾の縁を重ね合わせ、青銅の壁を構築した。カレスが前線で「走るな! 隣と合わせろ!」と怒鳴り散らす。

「同盟の者を左へ。先に行かせるな」

 ケイリソポスの命令により、同盟派モッシノイコイの戦士たちは左翼の、比較的緩やかな地形へと配置された。彼らは再び歌い、叫び、木塔の敵を罵っていたが、ギリシア軍の本体はただ沈黙したまま、一定の歩調で斜面を上っていった。


 前話で奪われたギリシア兵の丸盾が、木柵の最も高い場所に掲げられているのが見えた。若い重装歩兵たちがそれを見て怒りに目を血走らせ、足早になりかける。

「怒りはおもてにのせるな」

 ケイリソポスの低い声が、列の乱れを未然に防いだ。走るな。一歩ずつ、重みのままに押すのだ。


 木柵の手前で、敵の長槍が一斉に突き出された。

 金属……青銅が敵の武具と衝突する激しい音が、山道に響き渡る。敵の槍の長さは異様で、ギリシア兵の甲冑を激しく叩いたが、密集した盾の壁はそのすべてを受け止め、弾き返した。

 一人の武勇ではない。盾と盾が噛み合い、数千人の体重が斜面を下から押し上げる、圧倒的な質量の圧だった。

 木塔側は、昨日のようにはいかないことに気づき、初めて狼狽の気配を見せた。いくら突いても、どれほど石を投げても、ギリシア軍の「歩く壁」は微動だにせず、確実に間合いを詰めてくる。歌ではなく、盾の軋みと重い足音だけが、戦場の空気を支配していた。


「押せ」

 ケイリソポスが、指揮杖を突き出した。

 重装歩兵の壁が、一気に前へと傾く。カレスが叫び、青銅の盾で木柵を力任せに殴りつけた。

 バキバキと、不気味な破砕音が響いた。何本もの丸太で組まれていたはずの堅固な木柵が、ギリシア軍の圧倒的な圧力の前に耐えかね、内側へとへし折れた。

「破ったぞ! 突込め!」

 カレスの怒号とともに、重装歩兵の列が壊れた木柵の隙間へと雪崩れ込んだ。若い重装歩兵が、昨日奪われた自分の盾を見つけ、それを力任せに奪い返して拳を固く握り締めた。

 ここにきて、ギリシア人たちは初めて叫び声をあげる。


 これが恐ろしい。

 いままでの沈黙の進軍が一変、怒声をあげながら突っ込んでくる。

 戦場でペルシア軍を散々に打ち破ったように、ここでも、ギリシアの強さがいかんなく発揮された。


 左翼から突入した同盟派の若者は、その光景を驚愕の目で見つめていた。

 彼らが「攻城槌」として利用するつもりだった異邦の軍勢は、そんな生易しいものではなかった。彼らは、立ち塞がるものすべてを押し潰す、意思を持った「青銅の岩盤」だった。若者は、ギリシア軍の本当の恐ろしさを、その臓腑に刻み込まれていた。


 集落の中心にある巨大な木塔へ、敵は敗走していった。

 その塔の最上階には、部族の「木の王」が座している。周囲から養われ、守られ、戦いの最後まで決して塔から降りないという王。

 同盟派の戦士たちが叫び声を上げながら、木塔の根元に松明を投げ込んだ。たちまちのうちに激しい炎と黒煙が巻き起こり、高い塔を包み込んでいく。しかし、火の手が最上階に達しても、木の王は降りてこなかった。煙の向こうで赤い布の飾りが揺れ、異様な叫び声が響く中、塔はそのまま崩壊を始めた。


 木塔側は完全に崩壊し、同盟派の戦士たちは勝利の歌を狂ったように歌い始めた。彼らは勢いに任せて、集落の倉や他の建物にも火を広げようとする。

「倉は焼くな。止めろ」

 ケイリソポスが冷たく命じた。

 通訳が慌てて遅れて叫ぶ。同盟派の戦士たちが一瞬、不満げに反発の気配を見せ、鉄斧を握り直した。

 だが、ケイリソポスの合図とともに、ギリシア重装歩兵の盾の壁が半歩、前に出た。目の前に現れた青銅の威圧感に、同盟派の戦士たちは息を呑み、黙って引き下がった。勝った後にも、この規律ある戦列こそが最大の力であると、軍全体が示していた。


 開かれた倉の中からは、兵たちへの極上の報酬が姿を現した。

 中には、高く積まれた食料の山、大量の穀物の袋、そしてこの土地の名物である栗の貯蔵品がぎっしりと詰まっていた。さらに、酸っぱいが濃厚な葡萄酒の皮袋、塩漬けにされたイルカの肉、そして傷の手当てや灯火に使える大量のイルカ油の樽が並んでいる。

 昨日笑って敗れた若い兵たちも、今は失った誇りを取り戻し、戦利品の豊かな匂いの中で、確かに道が開かれたことを確信していた。


 歌で始まった戦は、盾の壁で終わった。

 ギリシア軍は木塔を落とし、道と食糧と……若者の先走りで失った誇りの一部を取り戻した。


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