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ぼろぼろの負け戦をなんとかしてまあまあの負け戦にする方法――研究塔に残れなかった学者のなりそこないのサバイバル  作者: 方丈
BOOK Ⅴ:帳簿役、ギリシア人の世界に帰ってくる(けど、油断できない)
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補章13前偏 味方の言葉にも刃がある

 黒海の暗い波が、容赦なく浜の砂を削っては退いていく。

 夕暮れの冷たい風が吹き抜ける浜辺には、無数の丸木舟が引き上げられ、巨大な生き物の死骸のように黒々とした影を並べていた。見上げれば、峻険な尾根の頂に、通行を拒む敵対派閥の木塔がそびえ立っている。その高く組まれた木柵の向こうからは、一切の物音が聞こえない。沈黙のまま、こちらを見下ろしている。


 刺青を持つ同盟派モッシノイコイの戦士たちは、浜のあちこちで焚き火を囲み、酸っぱい葡萄酒の入った皮袋を回し飲みしていた。粗く焼かれた栗の餅を噛みちぎりながら、彼らの視線は少し離れた場所に陣取る異邦の軍勢に向けられている。


 戦士たちの中に混じる一人の若者は、獣皮の外套に身を包み、鋭い鉄斧の柄を握り締めながらギリシア軍の動向を冷ややかに観察していた。

 若者は、沿岸の交易都市で少しばかりギリシア語を覚え、彼らの文字を読めるようになっていた。だが、先ほどの同盟交渉の席では、それを完全に隠し通した。通訳が言葉をたどたどしく置き換えるまで、何も分からない無知な野蛮人のふりをして見せた。海の向こうから来た槍の群れは、こちらを言葉を持たぬ「野の獣」だと思っている。そう思わせておけば都合がよかった。獣だと思った相手に、腹の内を読まれているとは考えもしないからだ。


 若者の目は、ギリシア軍の二人の中心人物へと向けられた。

 一人は、クセノポンと呼ばれる男だ。大きな身振りと整った弁舌で、この同盟がいかに双方に利益をもたらすかを大声で語っていた。いかにもアテナイの教養人らしい、耳に心地よい言葉を操る男だった。

 だが、若者が本当に危険だと感じたのは、その傍らで一言も発せずに座っていたもう一人の男、将軍ケイリソポスだった。

 ケイリソポスは、言葉を飾らない。ただ低く沈黙し、研ぎ澄まされた鉄の塊のような重みを背負ってその場にいた。彼の視線は、同盟の言葉など聞いておらず、この浜から尾根へ続く道幅と、そこに展開できる兵の数だけを値踏みしていた。


 ギリシア軍の重装歩兵たちは、ひどく疲弊していた。雪山を越え、泥道を歩き通してきた彼らの外套は擦り切れ、青銅の甲冑には無数の傷が刻まれている。空腹であることは、その引き締まりすぎた頬を見れば一目瞭然だった。

 しかし、彼らが盾を地面に突き立て、整然と列を作った瞬間の圧迫感は異様だった。一人一人は飢えた漂流者のようでありながら、列となった途端、それは個人の集まりではなく、一つの巨大な「歩く壁」へと変貌する。ただの飢えた群れではない。数々の戦場をくぐり抜けてきた、冷酷な規律の匂いがした。


「使えるか」

 同盟派の長が、低い声で若者に尋ねた。

「使える。あれは最高の攻城槌だ」

 若者は、ギリシア語を交えずに部族の言葉で答えた。

「だが、あの槍は鋭すぎる。木塔を占める連中を突き殺させた後、すぐに海へ追い払わねえと、今度は俺たちの喉を突きにくるぞ」


 同盟派の目的は切実だった。尾根の木塔を占拠する敵対派閥を打ち倒し、奪われた集落と、そこに眠る食糧庫、そして自分たちの正統なる王権を取り戻さなければならない。そのためには、あの外来の軍勢を利用し、道と舟を与える代わりに、血を流して戦う攻城槌になってもらう必要があった。彼らは友人ではない。同じ敵を持っただけの、危険極まる刃だ。


 夜が更ける頃、ギリシア軍への「案内人兼人質百人」の受け渡しが始まった。

 同盟派の長は、百人の割り振りに小細工を混ぜていた。本当に道を知る年老いた案内人。功名を求めて逸る若い戦士。ギリシア軍の動向を監視するための目。そして、仮に殺されても部族の痛手にならない、逃げても惜しくないどうでもいい若者たち。それらを適当に混ぜ合わせ、百という数字だけを帳尻合わせして差し出した。


 受け取ったギリシア側の書記官と触れ役は、たいして表情も変えなかった。

「道を知る者は、前に出ろ」

 触れ役の通る声が、暗がりの浜に響く。彼らは差し出された百人を、木札に刻まれた名簿と照らし合わせ、淡々と確認していった。そこに疑いや怒りの表情はなかった。ただ、軍としての手続きを事務的にこなしているだけだった。その感情のなさが、かえって若者の背筋を寒くさせた。彼らは騙されているのではない。騙されていることすら含めて、百人の「人質」という契約の重さだけを受け取っているのだろう。


 仮にこちらが裏切れば、この木札に書かれた百人は、躊躇なく一列に並べられて首を刎ねられるのだ。


 若者はギリシア語を理解できぬふりを続けながら、自身の血縁の者を人質の列へと送り込んだ。利用するつもりの相手を、同時に深く恐れ始めている自分に気づいていた。


 やがて、東の空が白み始める。

 浜辺に並んだ丸木舟の影が、うっすらと朝霧の中に浮かび上がった。

 同盟派モッシノイコイの戦士たちが、一斉に立ち上がる。彼らは白い牛革の盾を叩き、奇妙な節回しの歌を歌いながら、足を踏み鳴らし始めた。笛の音が響き、低い喉声が山道へと吸い込まれていく。それが彼らの戦の呼吸であり、進軍の合図だった。


 ギリシア軍の陣営からは、その異様な踊りと歌を滑稽そうに笑う声が漏れていた。「野蛮人の祭りだ」と囁き合う声が聞こえる。

 だが、若者は笑わなかった書記官らしき若者を見ていた。将軍たちもほとんど表情が無かった。

 霧に包まれた尾根の木塔を見上げた。

 敵対する木塔側は、依然として物音一つ立てず、深い沈黙を保っている。若者の胸に、冷たい不気味さがこみ上げていた。歌い踊る味方の声が、まるで死者を引き寄せる呼び声のように聞こえ始めていた。

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