第105話 味方にする敵を選ぶ
ケラススを発った僕たちの隊列は、にわかに険しさを増した沿岸の峻険さに足止めを食らっていた。
隊列、車列を組むことなどとうに諦め,駄獣の背に最低限の麦袋を括り付けて細い山道を這うように進む。小さくて取り回しの良い荷車だけ持ち込める。
一度やっているので手慣れたものだ。
左手には見渡す限りの黒海が広がり,右手には雲を突くような巨木と岩肌が迫っている。
そして,その細い道の行く手を遮るように,尾根の要害に建てられた「木の塔」がそびえ立っていた。
モッシノイコイ人。
書物の一節か塔の講義で、『木の家に住む辺境の民』として名だけは知っていたが、その実態は洗練からは程遠い。
槍と刺青を剥き出しにした部族だった。簡単に言えば、物語に出てくるような蛮族だ。
彼らは衣服の隙間から不気味な紋様を覗かせ、等間隔に並べられた木の砦から、こちらに向けて重い鉄の槍先を突き付けている。
「……手強いですね。正面から押し通れば,また名簿に線を引く羽目になりますよ」
レオン・カルディアスは,手元で揺れる木札の束を外套の下に押さえながら、眉をひそめた。
ケラススでの点呼で,僕たちの戦闘員は八千六百にまで磨り減っていることが確定したばかりだ。
海辺の穏やかな町で一息ついた兵たちの気力は、目の前の頑強な砦と通過を拒む部族の敵意を前にして、再び萎えかけていた。
辺境のさらに辺境とはいえギリシア世界の端まで帰って来たという事実は、想像以上に、兵たちの心構えを崩していた。
戦う集団ではなく、帰宅する集団に。
これ以上の無駄な損耗は、軍の維持そのものを底から瓦解させかねない。
自力で突破するには成算が薄い。ならば,別の手段を探すしかなかった。
「主計殿、吉報だぜ。向こうから客人がお見えだ」
隊列の後方から,ミュロンが数人の男たちを伴って歩いてきた。
やってきたのは、僕たちの通行を阻んでいるモッシノイコイ人とは、微妙に刺青の紋様が異なる男たちだった。彼らにはケラススで雇った通訳が付き従っている。
「彼らは、あの砦に籠もっている連中と敵対している派閥の使節だそうです」
通訳がもどかしい遅れを伴ってギリシア語へ訳す声を、レオンは一語も聞き漏らさないよう耳を傾けた。
使節の男たちは、皮袋に詰められた酸っぱい葡萄酒や,この土地の特産であるらしい平たい栗の餅のような食物を,友好の証として卓の上に差し出してきた。
「敵の敵なら味方ってわけか!
おい、これならあの小癪な木の塔を後ろから挟み撃ちにできるぞ!」
周囲で様子を窺っていた重装歩兵の下士官たちが,差し出された食物を見て安易な歓声を上げた。地獄の雪山を越えてきた兵たちにとって、「こちらの味方をしてくれる現地人」の存在は、あまりにも都合のいい救いに見えたのだろう。
だが、レオンの目は少しも笑っていなかった。
そんなわけがあるはず無いのだ。
そして、使節の中の幾人かの反応や振る舞い…なにか腑に落ちないものを感じていた…が、それよりは身内の頼りなさだ。
だいたい、なぜあいつらはこの不穏な山の中で、見ず知らずの異民族が自分たちを無条件に歓迎してくれると思えるのか。
差し出された栗の餅を観察する。奇妙な油が浮いていて、お世辞にも食欲をそそるものではない。
案内役の距離、通訳の口調,使節が握り締めている槍の使い込まれ方。それらを見る限り、彼らが僕たちを呼び込んだのは「同胞への親愛」などではなく,ただの都合のいい軍事力として利用するためであることは明白だった。
「我が同胞たるギリシアの軍勢よ」
新将軍クセノポンが、落ち着いた足取りで前へ進み出た。彼は差し出された皮袋を受け取り、使節の長に向けて端正な顔を向けた。
「我々は名誉ある自由市民の軍隊であり、ただ故郷へ帰るための道を求めている。もしあなた方が我々に道を開き,案内を提供してくれるならば,我々もまた神義に基づき,あなた方の不義なる敵を討つ力を貸す用意がある」
アテナイ人の…しかも知識層、教養層らしい非のうちどころのない美しい弁舌だった。通訳がそれを現地語へ訳すと、使節の男たちは満足そうに胸の刺青を叩いた。
しかし、美しい言葉だけでは家政も兵站も回らない。
「クセノポン殿」
レオンは一歩前に出ると、極めて丁寧な口調で、しかし釘を刺すように実務の論点を切り出した。
「将軍方の方針は、承りました。
その上で……
言葉の定義を明確にしていただかなければ帳面が破綻します。
そこで越権ではありますが主計局の観点から口出しをお許しください……
通訳さん、僕の言う通りに彼らに伝えてください」
レオンは蠟板を開き、尖筆の先を使節に向けた。
「僕たちが欲しいのは『道』という抽象的な概念ではありません。具体的な『通行権』と『案内人の人数』、そして沿岸を進むための『舟の数』です。あなた方はそれらをいくつ、いつまでに用意できるのですか。我が軍の胃袋は、あなた方の祝意の言葉だけでは満たされないのですよ」
通訳が恐る恐るその言葉を伝えると,使節の長は少し面食らったようにレオンを見た。若い帳簿役の細い指先から放たれる、現物の数字を求める圧に気圧されたのだろう。
あの長らしき人物とよく似た若者ともう一人…あの二人。多分、ギリシア語をわかってる。
と睨んだレオンのかけだ。
もどかしい通訳のやり取りが数度往復した。
レオンは彼らの提示する条件を冷徹に整理し、蠟板に刻み込んでいった。
そして、当たりをつけていた2人と長らしい人物の様子を観察していた。
ああ、もう1人、いるな。しかも、文字を読めるのか…
蛮族の見た目に騙されるところだった。
少なくとも1人はかなり教養を修めた人間がいる。そして、それを隠している。
簡単な相手では無いな。
「……なるほど。舟を数十隻、案内人を百人。その代わり、僕たちが果たすべき義務は、あそこの尾根にある砦を彼らと共に攻め落とし、彼らの敵を皆殺しにすることですか」
書き終えた数字を見つめながら,レオンは小さくため息を吐いた。
「味方が増えたと喜んでいる兵たちがいますが、勘違いしないでいただきたいですね。彼らは僕たちを『味方』にしたのではありません。自分たちの内紛に都合よく巻き込むための『猟犬』として雇っただけです」
「おいおい、言い方が最悪だぜ、主計殿」
後ろで聞いていたミュロンが、腕組みをしたまま不敵に笑った。
言葉を表情が裏切っていた。
実にいい笑顔だ。
「だが、話は胡散臭えが、道が要るってのは確かだ。あの木の塔を正面からこじ開けるよりは、この刺青野郎どもの案内で裏道から回ったほうが、兵を死なさずに済む」
「ええ。ミュロン殿の練達の勘には同意します。だから、この契約は…そう、検討の余地はあります……ただし」
レオンは顔を上げ、野営地で栗の餅を雑に貪っている兵たちの姿を冷たい目で見つめた。
改めて帳簿を開く。
そして使節を見た。
案の定、当たりをつけていた人間が帳簿を凝視していた。
交渉の妥結直前にひっくり返され、もう一つやってきた山場に焦れてしまったのだろう。
「僕たちは彼らの味方になったのではない。ただ、同じ敵を持っただけです」 その一言は、広場の空気をピりりと引き締めた。
本職の将軍たちが、この世を去った影響はこういう、老練の駆け引きに出るのだろう。
多分彼らがいたら、レオンがイキリ散らかすよりもよほど上手くやったはずである。
どう考えても、安全とは中立によって得られるものではない。
この辺境の地で前へ進むためには、誰かの敵意を買い、誰かの血の流れる利害関係の中に、自ら片足を突っ込まねばならないのだ。
であるならば、僕たちは道を手に入れるため、その代償として、あそこの木の塔にいる部族の敵意をそのまま僕たちの「新しい敵」として引き受けることになる。
この木札に記された契約は生存を保証する代わりに即座に次の凄惨な戦闘を約束していた。
理解できるから,本当に腹立たしい。 「……レオン、これ」
不意にダフネが僕の前に皮袋を差し出してきた。
見ると、彼女は使節が持ってきた胡散臭い食物には一切手を付けず、ただ軍の共有物資である清水の皮袋から僕の分の水を汲んできてくれたようだった。
その現物の水の感触が、レオンの自制を辛うじて支えてくれる。
「ありがとうございます、ダフネ。やはり、見知らぬ土地の水と言葉は、慎重に扱うべきですね」
「そう。でも、飲んでから言って…飲め」
ダフネは短く切り捨てると、使節たちの不穏な手の動きから一切目を離さないまま再び僕の斜め後ろにその身体を置いた。
同盟の契約は成立した。
クセノポンが使節と言葉を交わし。トルミデスの大声が、新指導層の決定を夜営全体へと釘のように打ち込んでいく。
道は開けた。だが、その道の先からは、すでに新しい血と鉄の匂いが風に乗って漂ってきている。
海は見えるのに、まだ僕たちの足は泥に塗れ、他人の因縁を背負わされ続けている。
レオンは尖筆を握り直し、木札に刻まれた「案内人兼人質 百人」という数字が、明日の日の出までに本当に揃うかどうかを確かめるために、しばらく気は抜けなそうだつた。
そして彼は、暗くなっていく砦の影をただ冷徹に睨み据え続けた。




