第104話 八千六百の顔ともう戻らない名前
潮風が、羊を焼く脂の匂いと、強い香草の煙を運んでくる。
トラペズスを発ってから数日の強行軍を経て、僕たちの陸路部隊は同じギリシア人の植民市であるケラススへと到着していた。海路を選んで病人や女たちを乗せた船団ともここで無事に合流でき、軍は十日間の滞在を許されることになった。
ケラススの港には、潮の匂いとともに活気が満ちている。浜に打ち寄せる波は穏やかで、行き交う漁船や商船の白い帆が陽光を浴びて輝いていた。山と雪の凍えるような白一色の世界から解放され、ようやく人間のまともな営みの中へ戻ってきたのだという体感が、兵たちの強張った肩を緩めさせている。
だが、その穏やかな港の広場で、主計局(局と言っても僕と数人の書記補しかいないが)に与えられた仕事は、安堵に浸る暇のないものだった。
総軍集会の決定により、この滞在期間を利用して、すべての武装兵の点呼および武装確認を行うことになったのだ。
「カリアス・プロクセノス隊所属、軽装歩兵」
「はい! ここにいます!」
呼びかけに応じたカリアスが、元気に一歩前へ出た。彼の持つ小盾の革は擦り切れ、衣服もボロボロだったが、槍だけはしっかりと磨かれている。僕は手元の木札に尖筆で印を刻み、静かに頷いた。
「結構です。次の村まではその槍を失くさないようにしてくださいね。……では次。メノン隊所属、重装歩兵、テオゲネス」
「……」
広場に、一拍の沈黙が落ちた。
誰も前へ出ない。並んだ重装歩兵たちの列からも、返事はなかった。
「……メノン隊、テオゲネス」
もう一度呼びかける。やはり、誰も動かない。
背後に控えていたその隊の分隊長が、苦々しそうに首を振った。
「無駄だ、主計殿。そいつはカルドゥコイの山地で夜に見張り火が消えた時に、敵の不意打ちを食らって谷底に落ちた。遺体も回収できていない」
「……左様ですか。失礼いたしました」
僕は表情を変えず、丁寧な口調のまま、テオゲネスという名前の横に、線を一本引いた。これで彼の名前の欄は、ただの「空白」に変わる。
点呼とは、生きている者を数える実務であると同時に、返事のない名前を帳面から抹殺していく作業でもあった。
「プロクセノス隊、アガシアス」
「……」
「ソクラテス隊、キセニアス」
「……」
名前を呼ぶ。沈黙が返ってくる。そのたびに、木札の上に冷酷な斜線が刻まれていった。
いや、分かってはいたのだ。
想定よりも消費が少なかったから。
大体の目算で…山を降りた直後くらいから、およその数はわかっていた。
だが、こうして一人ひとりの名前を呼び上げ、その都度落ちる「返事のない間」を肌で感じさせられるのは、紙の上だけで数字をいじるのとは訳が違う。
並んでいる兵たちも、最初は久しぶりの都市の空気に浮ついていたが、点呼が進むにつれて次第に口数が減っていった。名を呼ばれない者、二度と戻らない隊の空白が、港の潮風の中に明確な「冷たい数字の圧力」として可視化されていく。
死因は一様ではない。ペルシアの矢に倒れた者、カルドゥコイの岩に潰された者、アルメニアの雪に足を腐らせてたもの、凍死したもの、あるいは過酷な行軍に耐えかねて夜の闇に脱落していった者。それらすべての損耗が、僕の持つ木札の山に、ただの「返事のない名前」として圧縮されていく。
「……これで、すべての隊の確認が終了しました。皆さん、ご協力ありがとうございました」
最後の名前を読み終え、僕が配給卓に木札を置いたときには、日はすでに大きく西に傾いていた。
詰めかけていた分隊長や半隊長、百人隊長たちが、それぞれの不満や疲労を抱えた足音を響かせながら散っていくのを眺めていると、背後から静かな気配が近づいてきた。
アテナイ人の新将軍、クセノポンだった。
「苦労をかけたね、レオン」
クセノポンは僕の卓の前に立ち、山積みになった木札に視線を落とした。彼の端正な顔にも、寝不足の目と、隠しきれない緊張が張り付いている。
「軍議の前に、正確な数を把握しておきたい……武装兵の総数は、何人になった?」
僕は計算盤の横に控えていた集計の控えを取り出し、クセノポンに見せた。
「八千六百でした」
その数字を口にした瞬間、僕の喉の奥に、ざらりとした砂のような苦味が広がった。
遠征が始まった当初、王弟キュロスが金でかき集めたギリシア人傭兵は、一万三千を超えていたはずだった。非戦闘員や随伴要員を合わせれば、二万に迫る巨大な集団だったのだ。それが、今や戦闘を継続できるのは八千六百にまで減っている。
およそ、当初の三割以上が戦列から消えた計算になる。
「八千六百、か」
クセノポンはその数字を口の中で繰り返した。演説で万人を動かす彼が、その言葉を発する前に一瞬だけ喉を詰まらせ、沈黙したのを僕は見逃さなかった。
「……生きている者が、です。クセノポン殿」
僕は僕自身でも嫌になるほど冷淡な声音で、そう付け足した。
「この八千六百という数字には、故郷へ帰るための最低限の武具を維持している者しか含まれていません。船に乗せた傷病者や、武器をなくし荷駄引きになってしまった者たちは、この勘定の外側にいます。彼らをどう食わせ、どう運ぶかを考えれば、僕たちが抱えている負担は数字以上の重さになります」
クセノポンはしばらく木札の山を見つめていたが、やがて静かに息を吐き出した。
「分かっている。だが、数が確定したことは大きい。これで、今後の乗船計画も、次の都市との交渉の前提も、ようやく秩序の上に置くことができる」
クセノポンは真剣な、どこか感慨深い眼差しで僕を見つめた。その目は、かつてプロクセノスの客分として軍の隅にいた、頼りない「学者になれなかったなりそこない」を見るものではなかった。
「(頼もしくなったな……)」
アテナイの知識人らしい、静かな述懐を抱いているかのような目だった。レオンがただの「紙の上の将校」ではなく、水や麦の現物限界を誰よりも冷徹に見通す、この軍に不可欠な実務の柱になったことを、彼は誰よりも正しく理解しているのだ。
「感謝するよ主計殿、いや、兵站監殿」
クセノポンはあえて僕の古い肩書きを訂正するように、敬意を込めてそう言い直した。
「君が正確に数えてくれたおかげだ。君の言葉には、いつも確かな根拠がある」
「……恐縮です。僕はただ、次の村でこちらの配給帳が死なないようにしているだけですから」
丁寧な言い繕いの中に本音を隠しながら、僕は手元の木札を整えた。完璧な英雄などではない。彼もまた、この減りすぎた軍の現実の重さに押し潰されそうになりながら、それでも言葉を立てて前へ出続けているのだということが、その真摯な態度から伝わってきた。
クセノポンは木札の控えを大切そうに外套の懐に収めると、軍議の開かれる天幕の方へと歩み去っていった。
これで軍の現在数が完全に固定され、今後の配給や進路選択のための冷徹な土台ができた。
だが、それと同時に、胸を抉られるような「小さな痛み」もまた、僕の手元には残されていた。
どれほど厳密に数を数えたところで、失われたものたちの命が戻るわけではない。僕の仕事は、彼らの死に道徳的な意味を与えることではなく、ただ「もうこの世にいない」という事実を、帳簿の差異として処理するだけだ。数字が確定した瞬間、死者たちがただの名札に変えられ、遠くへ追いやられていくような虚しさが、どうしても拭えなかった。
ぼくはいったい、何のためにこれを数えているのだろう。
ふと漏れかけた自嘲の呟きを、不意に配給卓の上に落とされた重みがいなした。
「……」
見ると、ダフネがいつの間にか僕の隣に立ち、卓の上に大きな水瓶をドスンと置いていた。
彼女は、ただ、えす汚れた海綿を取り出すと、ぼくが尖筆を握り締めすぎて白くなっていた右手を、無言のまま冷たい水で拭い始めた。
手が驚くほど熱を持っていたことに、そのとき初めて気づいた。
「ダフネ……」
「手が汚れてる。そのまま帳面を触ると、文字が滲む」
相変わらず辛口な言い草だったが、海綿から伝わる水の冷たさが、僕の昂ぶっていた頭を少しだけ冷ましてくれた。
「……そうですね。滲んで読めなくなれば、また書き直しです。それは面倒極まりない」
もう、山は降りている、蝋板が使えるので、インクは前ほどは使わない。
それでも…
丁寧な言い繕いの中に本音を隠しながら、僕は彼女に手を預け続けた。認めたくないが、彼女がただ隣にいてくれるだけで、自分が辛うじて人間の形を保っていられるような気がする。
ケラススの港に、夜の帳が降りようとしていた。
八千六百という数は、かつての数に比べれば見る影もない損耗の帰結だ。だが、それでもなお、この黒海沿岸を移動する組織としては、巨大すぎる凶器であり、災害の塊であることには変わりがなかった。
ここからさらに西へ進むには、土地の君侯や、次の都市の都合という新たな障壁を越えねばならない。
海路もつかえる。
生き残った仲間も、まだ八千以上いる。
だが、その巨大な飢えた胃袋を維持するための戦いは、ここケラススの地でも、終わる気配を見せてはくれなかった。
僕は冷えていく指先で尖筆を握り直し、暗くなっていく海の彼方を見つめながら、明日動くはずの食糧の計算を、もう一度最初から組み立て始めた。




