103話 海路と陸路
トラペズスの港に打ち寄せる波が、船べりを一定の拍子で叩いている。
波飛沫を浴びて湿った太い麻縄が、木製の係留柱ときしんだ音を立てて擦れ合っていた。ケイリソポス将軍がビザンティオンから連れてくるはずの本格的な艦隊を待つ間,軍の指導層はトラペズス近隣からかき集められるだけの商船や小舟を徴発し、港へ引き入れていたが,その数は一万弱の人間を収容するにはあまりにも虚しかった。
全軍を一度に海へ逃がすことは、物理的に不可能である。
ゆえに、将軍団が下した決断は冷酷なものだった。軍を、海を行く者と、陸を歩く者の二つに分割する。
「……これより、乗船名簿の読み上げを行います。名前を呼ばれた者は、速やかに指定の船へ移動してください」
港にうずたかく積まれた荷の山の前で,レオン・カルディアスは新しく書き改めた蠟板を片手に,集まった兵たちへ向けて声を張った。目下にあたる一兵卒に対しても口調の丁寧さは崩さないが,その行間には有無を言わせぬ事務的な棘が仕込まれている。
船に乗せるべき人員の基準は、人道的な慈悲によるものではなかった。
病人、四十歳以上の年長者、少年、武具を持たない女たち。それに加えて、全軍の記録や共有財産を収めた重い大箱といった、どうしても手放せない重要な実務荷物。それらを優先して限られた船倉へと放り込む。体力のない弱者を陸路の強行軍に付き合わせれば、瞬く間に脱落者となって戦列から消えるか,全体の移動速度を低下させて軍そのものを破綻に追い込むからだ。
理屈の上では、これ以外の配分はあり得なかった。
だが、正しさが現場の感情を消し去ってくれるわけではない。
「おい、ちょっと待て。なぜあいつらが先に船へ乗るんだ」
案の定、不満に満ちた怒鳴り声が、詰めかけた重装歩兵の列から上がった。
生皮の靴の底を乱暴に地面に踏み鳴らし,レオンの配給卓へ詰め寄ってきたのは、過酷な雪山を五体満足で切り抜けてきた頑健な兵士だった。
「俺たちはあの地獄のようなカルドゥコイの山地やアルメニアの雪を自分の足で踏み越えてきたんだぞ。
ここまで命がけで戦ってきた俺たちが、なぜまだ泥道を歩かなきゃならねえ。船に乗る奴らは、後ろでただ縮こまっていただけの連中じゃないか。
不公平だろうが、主計殿」
周囲の兵たちからも、同調する地鳴りのようなざわめきが起こった。
海を見れば、誰もが楽をして故郷へ帰れると信じたくなる。彼らにとって、これ以上の徒歩行軍は「生き延びるための戦い」ではなく、頑健であることに対する理不尽な「罰」のように見えているのだ。
「お言葉ですが、これは公平さの勝負ではなく、生存率の計算です」
レオンは尖筆を蠟板の溝に正しく収めると、真っ直ぐに兵士の目を見返した。
「不満があるのは重々承知していますが、どうか聞き入れてください。あなた方は、健康で、自力で槍を持って歩くことができる。だからこそ、陸路の速度を維持するためにその足が必要なのです」
「要するに、俺は丈夫だから歩けってことかよ!」
兵士が卓を拳で叩いた。載せられている小物の群れが小さく揺れる。
レオンは表情を一切動かさず、むしろ声をさらに低く、明瞭に響かせた。
「そうです。歩ける人に歩いてもらわないと、歩けない人が死にます。
比喩でなく死んでしまいます。
もしあなた方が無理に船に乗れば、その代わりに歩けない病人がここに置き去りにされます。彼らが現地の住民に捕らえられ、奴隷として売り払われるのを、あなたは港から黙って眺めているつもりですか。それとも、彼らを無理に歩かせて、隊列が渋滞し、瓦解する流れを容認しますか。どちらを選んでも、その後に待っているのは全員の破滅ですよ」
冷徹な正論に、兵士は言葉を詰まらせ、拳を握りしめたままレオンを睨みつけた。
だが、レオンはそこで言葉を止めなかった。少しだけ声音を和らげ、しかし逃げ道を塞ぐように言葉を重ねた。
「それに……」
レオンは視線を、タラップを渡っていく病人や老人たちの、泥をかぶった背中へと向けた。
「せっかくここまで、あの地獄のような撤退戦を一緒に生き延びてきた戦友なのです。どうせなら、一人残らず無事にギリシアへ戻してあげたいとは思われませんか。あそこの足の腐りかけた爺さんも、泣き虫の少年も、全員です」
丁寧な言葉遣いの中に、レオンなりの、奇妙にねじくれた愛着が混じっていた。
「誰かをここに置いていけば、僕たちの帰還は不完全なものになります。それは、あまり寝覚めのいいものではないでしょう。
あなたのような勇敢な重装歩兵なら,なおさらそう思うはずですが」
チクリとプライドを刺すような皮肉の混じった説得だったが、詰め寄っていた兵士の肩から、不意に力が抜けた。
兵士は、船べりにしがみついている老人や子供たちを見つめ、それから共に泥道を歩くことになる、煤まみれの仲間たちの顔を見回した。
「……ちぇっ」
兵士は頭をガリガリと掻くと、大きくため息をついた。
「それもそうか。まったく、お前さんの言う通りだ、主計殿。一緒にあの地獄を生き延びたんだ。途中で見捨てるにゃ、ここまで一緒に歩きすぎちまったな」
「ご理解いただけて助かります」
レオンが小さく一礼すると、兵士は「陸路もきっちり歩き通してやるよ」と吐き捨て、自分の隊列へと戻っていった。
認めたくないが、筋は通っているし、何より戦友を見捨てるのは彼らの誇りが許さないのだ。
理屈が、泥臭い連帯感という感情によって、ようやく現場に受け入れられた瞬間だった。
船着き場では、乗船を許可された者たちが、なおも後ろめたい視線を落としながら、渡し板を渡っていた。
船に乗る子供たちの、怯えたような沈黙が、かえって港の空気を重く沈み込ませていた。
「……レオン」
不意に、すぐ横から低く短い声が聞こえた。
見ると、ダフネがレオンのすぐ傍らに立ち、彼の手元を見つめていた。
レオンは気づいていなかったが、次々に突きつけられる兵たちの怨嗟と、名簿をめくる自分の指先が、わずかに震えていたらしい。
ダフネは、ただ、無言のまま日焼けした手を伸ばすと、風でめくれそうになっていた羊皮紙の乗船名簿の端を、その細い指先で静かに押さえた。
正しいことをやったなら平気な顔をしろ、と彼女の行動が言っているような気がした。
「……ありがとうございます、ダフネ。助かります」
「いい。次、呼んで」
ダフネの短い促しに、レオンは深く息を吐き出し、胸の動揺を事務的な冷徹さで包み直した。
「主計殿、荷の積み込みは終わったぜ」
さらに泥の跳ねた外套を揺らしながら,ミュロンが歩み寄ってきた。彼は陸路組の先頭に立つ軽装歩兵たちをまとめ上げ,すでにいつでも発てる構えを取っている。
「船に乗せる分はきっちり押し込んだ。これ以上積めば、波をかぶって沈没する。あとは歩く奴らの足並み次第だな」
「ミュロン殿。陸路はケラススへ向かうことになりますが,道中の地形はかなり険しいと聞いています」
「分かってるよ。ここでもほとんど車列は組めねえ。小さい取り回しのいいやつと、あとは駄獣の背に載せられる分だけを持って、山沿いの道を強行突破する。文句を垂れる重装の尻は、俺が槍の石突きで叩いて進ませてやるさ」
ミュロンはそう言って、港に残る頑健な兵たちの不満に満ちた足音を睨み据えた。古参兵の現場語には延々と続く徒歩行軍の過酷さが、飾り気のない事実として含まれている。
やがて、最初の商船が港の石組みを離れ、櫂の音を響かせながら黒海へと滑り出していった。
それを見送る陸路組の兵たちの間には、未だに割り切れぬ思いと、道連れを一部失ったかのような奇妙な孤立感が漂っている。
これまで、どんな苦難の時であっても、この軍は「一つの移動する都市」という大きな塊であり続けた。だが、今日この瞬間をもって、その前提は完全に崩れ去った。海路と陸路。物理的に割られた軍は、もう一枚岩の組織としては機能しない。
海は帰還を約束してくれたわけではない。ただ、人間たちの利害と言葉の通じなさを、より残酷な形にして抉り出しているだけだった。
「……僕たちも、発ちましょう」
レオンは尖筆で蠟板に最後の斜線を刻み込み、名簿の管理を終えた。
残された陸路組の長い隊列が、ケラススを目指して重い足音を響かせ始める。
波の音に消されていく仲間たちの船影を背に受けながら,レオンは自分の生皮の靴の紐を締め直し,新たな破綻の兆しが帳面の上に現れないかどうかを,ただ冷徹に見据えながら歩み出した。




