第102話 やるなら、隊で出ろ(そして手続きもしていけ)
トラペズスの市場は、到着直後の熱狂から一転して、冷酷な計算盤が支配する場所に変わっていた。
一万弱の軍勢が突如として城壁の外に居座ったのだ。どれほど黒海沿岸で鳴らした交易都市であっても、所詮は辺境の小都市、市場の均衡など一日で吹き飛ぶ。
小麦、大麦を詰めた麻袋も、塩魚も、数日前とは比べものにならない値札がつけられていた。都市の商人どもは、こちらの足元を完全に見て交易の秤を傾けている。ダレイコス金貨や銀ミナを豊富に溜め込んでいる重装歩兵の百人隊長クラスならまだしも、自前の装備すら怪しい軽装歩兵の末端や荷駄引きたちには、市場の物資は高嶺の花でしかなかった。
「主計殿……。あの、本当に腹が減って動けないのですが」
敷いたむしろの上に力なくしゃがみ込んでいたのは、軽装歩兵の若手であるカリアスだった。空になった、目の粗い布袋を両手で寂しそうに揉んでいる。
一度…食べれてしまうと人間はより空腹を感じる。やむをえない事だった。
レオン・カルディアスは、手垢で黒光りする使い込んだ計算盤の木枠を指先でなぞりながら、極めて穏やかな、しかし一切の妥協を許さない声音で応じた。
「困りましたね、カリアスさん。僕がどれほど帳面を睨みつけたところで、この配給幕の隙間から大麦の粉が湧き出すわけではありませんよ。確か昨日の朝、あなた方には向こう三日分の干し肉と粥の麦か粉を分配したはずですが」
いかん、どっかの継母みたいだ…レオンは少し焦った。
「いや、それはそうなんですけど、雪山を越えたら急に腹が減るっていうか……」
カリアスは決まり悪そうに視線を落とし、自分の足を擦り合わせた。彼が履いている生皮の靴は、アルメニアの雪中行軍で完全にふやけ、親指のあたりが大きく裂けている。
雪カバーとためにつけていた天幕用の布の切れ端などは、とうに外している。
「気持ちは分からなくもありません。ですが、胃袋の欲求に従って帳簿の予定を前倒しにされては、僕の胃のほうが先に穴だらけになってしまいます。どうか自制という言葉を思い出してください。中央の塔ほどではありませんが、僕がいた地方塔の講義でも、飢えを制御できない者は家政を語るに値しないと教わりました」
「はあ、オイコ……何ですか?」
「何でもありません。とにかく、次の正規配給は明日の日没後です。それまでは水を飲んで、大人しく寝ていてください」
レオンはそう言って、尖筆を蠟板の溝に滑らせた。
カリアスは「冷たいなあ」と小さくぼやきながら、剥がれかけた靴の底を地面に引きずって去っていった。
冷たいのではない、カリアスだけならなんとかしてあげたいけど…レオンは内心でそう呟き、指先に残る蠟の感触を拭った。
船が来るまでの待機日数と、毎日確実に減っていく全軍の兵糧。その二つの数字の帳尻を合わせることの不可能性を前に、レオンの頭痛はひどくなる一方だった。
ふと、野営地の外縁に奇妙な人の動きがあることに気づいた。
数人の兵士たちが、青銅の施された小盾を背負い、短槍を杖代わりにしながら、こそこそと陣の境界を越えようとしている。向かう先はトラペズスの市場ではない。都市の城壁とは反対側、すなわち近隣のモッシノイコイやコルキス人といった異民族が住む、深い緑に覆われた山野だった。
海を見た安心感が、最悪の形で兵たちの規律を緩めさせている。彼らはここが未だ異国の地であることを忘れ、「ちょっとそこまで食い物を探しに行く」という、ひどく雑な感覚で無秩序に陣を離れようとしていた。
「そこのあなた方。少々お待ちいただけますか」
レオンが配給幕から出て声をかけると、隊列を離れかけていた一兵卒が、酷く面倒くさそうな顔で振り返った。
ついぞ聞きたくもない教養ギリシア語などを聞いて、不愉快だったのだ。
「あ? なんだよ、お飾り主計殿。俺たちはちょっと狩りに行くだけだ。山の方の村にありそうな、羊の群れや穀物の倉をな」
「『狩り』とは随分と都合のいい言葉ですね。それはただの無許可の略奪です」
レオンは外套の土埃を払いながら、歩幅を崩さずに近づいた。
「戻りなさい。先日の総軍集会でも、現地のギリシア人都市との関係を拗らせないよう、無謀な私的略奪は禁じられたはずです」
「硬いことを言うなよ、坊ちゃん。俺たちはあの恐ろしいカルドゥコイ人の山を越えてきたんだ。こんな沿岸の田舎者どもに後れは取らねえ。向こうが勝手に怯えて、倉を置いて逃げ出すかもしれないぜ?」
男の顔には、根拠のない万能感が浮かんでいた。雪山を越えたという事実が、彼らの頭から生存のための慎重さを綺麗に奪い去っている。
これだから実戦経験だけのおつむの軽い荒くれ者は困る、とレオンは胃のあたりを押さえた。
彼らが過酷な山地を突破できたのは、軍という巨大な塊を維持し、互いに盾の列を並べていたからだ。腹の減りに目が眩み、数人の小集団で敵地に散らばれば、地の利を持つ住民たちに餌食にされるに決まっている。
現に、昨日も勝手に陣を出たきり、点呼の時刻になっても戻らない名前がいくつか帳面に残っているのだ。
「行くことは看過できません。あなた方が現地の住民に喉を掻き切られた場合、その損耗を埋める帳簿の書き換えがどれほど煩雑か、少しは想像していただきたいものです」
「てめえ、紙の上の仕事しか知らねえくせに、俺たちに飢え死にしろって言うのか!」
兵士が顔を真っ赤にし、槍の柄を握る手に力を込めた。
その瞬間、レオンの背後から影が伸びた。
ダフネが、音もなくレオンの斜め前に滑り込んでいた。
彼女は短槍を構え直すことも、声を荒げることもしない。ただ、いつでも地を蹴って相手の懐へ踏み込める独特の低い構えを取り、冷え切った視線で兵士の喉元だけを見つめていた。
「……っ」
その気魄と殺意にも似た何かに兵士はあからさまにたじろぎ、一歩下がった。
ダフネがその場を制圧してくれたことに内心で深く感謝しつつ、レオンは一呼吸を置き、声音の丁寧さを崩さないまま言葉を継いだ。
「誤解しないでください。僕は『食べるな』と言っているのではありません。死なずに、かつ組織を壊さずに食糧を持ち帰りなさい、と言っているのです」
レオンは配給幕の下に戻ると、テオドルスに命じていくつかの白木の札を持ってこさせた。
「食糧の調達が必要であるという点については、僕も同意します。ですが、勝手に散ることは絶対に許しません。食うなら、隊で出てください」
「隊で……?」
「そうです。誰が、どこの百人隊の所属で、何人で、どの方角の村へ向かうのか。それをこの木札にすべて記録します。そして、必ず『戻る時刻』をここに書き込んでいってください」
レオンは尖筆の先で、木札の表面を厳かに指し示した。
「万が一、申告した時刻を過ぎても帰還しなかった場合、こちらの判断で救援の部隊を差し向けます。どの尾根に合図の見張り火を上げるかも、あらかじめここで取り決めておきます。行き先も分からずに迷子になったあなた方を、わざわざ探しに行って全軍の足を止める余裕も権限も我が主計局にはありませんからね」
兵士たちは呆気に取られたように顔を見合わせた。略奪に近い調達行動に行くのに、役人のように名前と時刻を登録させられるなど、聞いたこともなかった。
「おいおい、そんな面倒な真似ができるかよ。俺たちは――」
「面倒なのは、てめえらの死体を数えさせられるこっちの仕事だ、馬鹿野郎」
背後から、低く地を這うような、しかしよく通る現場の声が響いた。
軽装歩兵の半隊長であり、荷駄護衛頭を務めるミュロンだった。彼は太い腕を組み、人相の悪い顔を歪めて兵たちを睨みつけた。
「主計殿の言う通りだ。てめえらが数人でウロウロして、現地の猟師どもに後ろから首を撥ねられたら、残された残高の処理がややこしくなるんだよ。坊ちゃんの帳簿に名前を残せ。どこへ行って、いつ戻るか。それを残さねえ奴は、陣の柵から指一本出すんじゃねえぞ。そんかわり戻らなきゃ、探しに行ってやる。そうでなきゃ死体を拾いに行くこともできねえんだからな」
ミュロンの言葉には教養などひとかけらもない。だが、歴戦の古参兵としての秩序感覚と、現場で人がどう動くか、組織はどういう順番で形骸化するのか、そして瓦解していくのか…を知る経験値の重みがあった。
兵士たちはミュロンの凄みに気圧され、舌打ちをしながらも、レオンの前にしぶしぶと列を作り始めた。
「百人隊の名前と、あなたの名前、それから同行する人数です。行き先の方角も正確に教えてください」
それでもぶつぶついつていたが
「カレス百人隊長を呼びましょうか?」
というと黙った。
レオンは淡々と問いかけ、木札に尖筆で刻みを入れ続けた。
先ほど飢えを訴えていたカリアスも、その列に慌てて並び、木札を覗き込んできた。
「主計殿、じゃあ俺たちプロクセノス隊の軽装五人で、あの東の尾根の裏側にある放牧地を見てきます。夕刻、日が落ちる前には必ず戻ります」
「分かりました。カリアス、無理をして深追いしないように。戻り時刻を過ぎれば、容赦なくミュロン半隊長がそちらに怒鳴り込みに行きますからね」
「うへえ、それは勘弁してください」
木札を受け取った兵たちは、数人から十数人のまとまった「塊」となり、野営地の柵を越えて、それぞれの目的地へと発っていった。
レオンの手元には、彼らの名前と行き先、そして約束の時間が刻まれた木札の山が残された。 これで、最低限の秩序は維持できる。勝手に散って各個撃破される無駄死には、確実に減るはずだった。
しかし、レオンの胸の奥には、油脂で固めた薬の塊を無理やり飲み込んだような、嫌な苦さが残っていた。
この木札のシステムが正しく機能し、彼らが怪我をせずに食糧を持ち帰ってきたとする。それはつまり、レオンの管理した数字の通りに、近隣のコルキス人の村が組織的に襲われ、彼らが丹精込めて育てた羊や、次の収穫まで食い繋ぐはすの大麦や小麦の袋が効率的に奪い去られたことを意味する。
軍の生存を確率論で調整する実務は、周辺の生活者から見れば、ただの洗練された災厄に他ならない。
こちら側の「生きたい」という理屈と、あちら側の「奪われる痛み」は、何の矛盾もなく同じ土地の上で両立してしまう。それが理解できてしまうことが、レオンには酷く不愉快だった。
僕は安全な幕舎の奥で帳面をつけながら、にわか仕立ての強盗団の行き先と帰還時刻を整理しているだけではないか、という自嘲が頭をよぎる。
「……素敵な笑顔をしろとは言わない」
不意に、すぐ横から低く短い声が聞こえた。
ダフネが、いつの間にかレオンの顔を覗き込んでいた。
「でも、ほっとくとあいつらはもっと死ぬ」
ただ、その乾いた事実だけを、そこに置いて、彼女は再び荷車の影へと戻り、周囲の警戒に目を光らせ始めた。
「……分かっていますよ。言われなくても、僕は数えるのをやめません…でもありがとう…」
レオンは水袋の栓を開け、ぬるい水を喉に流し込んだ。
調達部隊がうまく立ち回り、今日の分の麦を手に入れたとしても、明日の分はまた明日必要になる。ケイリソポス将軍が船を引いて戻ってくるその日まで、この飢えの計算は一日たりとも止まってはくれないのだ。
レオンは小さくため息を吐くと、夕暮れの光の中に伸びる、帰るべき海の水平線を一度だけ見つめ、それから手元の木札の数を、もう一度厳密に数え直した。




