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ぼろぼろの負け戦をなんとかしてまあまあの負け戦にする方法――研究塔に残れなかった学者のなりそこないのサバイバル  作者: 方丈
BOOK Ⅴ:帳簿役、ギリシア人の世界に帰ってくる(けど、油断できない)
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第101話 船は全員を乗せてはくれない

 潮風が、羊を焼く脂の匂いと、強い香草の煙を運んでくる。

 黒海沿岸に位置するギリシア人植民市、トラペズス。その港と城壁の外に広がる野営地は、数ヶ月ぶりの明るさと喧騒に包まれていた。

 アテナイ人たちからするとギリシア人の町とは認めがたい、訛りもひどく、奇妙な振る舞いの多い辺境のなかの辺境ではあったが、確かにギリシア人の営みがある町であった。

 市場には耳付壺(アンフォラ)が積まれ、安い葡萄酒の酸っぱい匂いが漂っている。雪山の凍えるような寒さも、異民族の毒矢に怯える夜も終わった。広場では全裸になった兵たちが勝手に徒競走や格闘競技を始め、見物人が野次と歓声を飛ばしては、海綿スポンジアで汗を拭っている。

 助かった。生きて海までたどり着いた。

 その熱狂が、陣全体を酒のように酔わせていた。

 だが。

「……全然、足りない」

 喧騒から少し外れた荷車の陰で、レオン・カルディアスは手元の蠟板ろうばんに刻まれた数字を見て、重いため息をついた。

 だいたい、なぜあいつらは海を見ただけで帰れる気になっているのか。

 少しバカなんじゃないのか…と、レオンは尖筆スチュロスの背で、蠟板の端をトントンと叩いた。


 ギリシア世界に帰って来たという安心感は、末端だけでなく、レオンの精神にも影響を与えていた。


 彼等との間に少し距離が空いてしまっている。


 クナクサの会戦前、王弟の遠征に従軍したこの軍は、荷駄引きや従軍商人などの非戦闘員も合わせればおよそ二万に近い「移動する都市」だった。それが今はどうだ。カルドゥコイの山地を抜け、アルメニアの雪に凍え、ここまでたどり着けたのは一万人弱。戦闘員に限れば八千あまりだ。

 実に、当初の半分程度まで削り取られている。

 これほど無惨な損耗があるだろうか。だが、レオンを今最も憂鬱にさせているのは、背後の雪山ではなく、目の前に広がる青い海の方だった。

 浜に引き上げられた船を見る。油脂が塗られた船腹、立てかけられたかい、太い帆綱。

 問題は、その数だ。

 トラペズスの港にある船をすべてかき集めても、とてもではないが残り一万の人間を乗せることはできない。ここは海辺の交易都市であって、巨大な艦隊の母港ではないのだ。

 計算盤アバコスの石を弾くまでもない。現在の船の数、一隻あたりの積載量。船倉に積まねばならない穀物袋の数と、水樽の置き場所。

 どう見積もっても、今ある船では一割も運べない。

 海は、帰還の道筋を示してはくれた。だが、海の上を全員で歩いて帰ることはできない。希望には、明確な「積載量」という限界があった。


「よう、主計殿。何を難しい顔をしてるんだ」

 機嫌のいい声が降ってきた。顔を上げると、重装歩兵ホプリタイの百人隊長カレスが、葡萄酒の入った革袋を揺らしながら立っていた。顔が赤い。完全に出来上がっている。

 カレスとは、対立しながらもここまで来て、お互い最低限の信用はできる間柄になっていた。

「海まで来たんだ。あとは船に乗って、故郷に帰るだけだろうが。お前さんも、もう少し笑ったらどうだ」

 悪気はないのだろう。カレスからすれば、雪山を越えてギリシア人の町に着いた時点で、仕事の八割は終わった気でいるのだ。足元の、すり減った生皮のカルバティナイを履き替えられると信じきっている。

 少し、度胸のついたレオンは、カレスをこの心配事に巻き込んでやろうと決めた。

 自分だけ気持ちよくなるなど、実にけしからんことなのだ。


「カレス殿」


 レオンは蠟板を伏せ、極めて丁寧に、しかし声の温度を一段下げて応えた。

「船が足りません」

「はあ? なに言ってんだ。海まで来たのにか?」

「ええ。海はあります。たぶん、どこか交易先にはありますが、この港にはありません…船は別で調達しないといけないのです」

 カレスの眉が寄った。

「待て。あの浜にある船だけじゃ足りねえのか。都市の連中から買い上げるか、借りるかすれば……」

「港にあるものを全部接収しても、数百人から千人くらいでしょう。往復輸送を待つだけの金もありません。

 つまり、残りの九千人はどうしますか、が問題になります。

 歩きますか。それとも、船が建つまでここで何ヶ月も待ちますか、という問いを、将軍たちと一緒に解かないといけないのです」

 レオンの言葉に、カレスは黙り込んだ。

 数字は容赦がない。

 熱をあっさりと削り落としてしまう。

「じゃあ、どうすんだよ」

 カレスが、頭をボリボリかきながら尋ねる。


「ケイリソポス将軍に期待ですかねぇ、その間、彼の邪魔をしないように変なこと言い出す人を牽制しないといけないのです」


 先ほどの軍議で決まったことだ。前衛を預かるケイリソポスが、ビザンティオンの提督のもとへ交渉に行き、軍船を引っ張ってくる手はずになっている。

「将軍が戻るまで、我々はこのトラペズス周辺で待機です」

「なんだ、じゃあ、おかしなこと言う奴をぶん殴りながら、待ってりゃいいだけじゃねえか」

 そのおかしな事を言い出す筆頭の一人だったカレスとも、随分仲良くなってしまったな…とレオンは思った。

「カレス隊長、残念ながら、待機の間の兵たちの食事代もないのです。いつまでも手出しさせるわけにもいかないですし…あなただって、ワインとかならいいけど日々のご飯全部払えって言われたら、いやでしょう?」


 レオンは手元の配給帳を叩いた。


「それに…ケイリソポス殿が戻るまで何日かかるか。十日か、ひと月か。その間、一万の胃袋を満たすだけの食糧を、この町の市場だけで賄えると思いますか。

 すでに手持ちの金が尽きかけている兵もいるんですよ」


 船が来るまでの待機日数と、毎日減っていく食糧。

 レオンが直面しているのは、その二つの数字を同じ帳面の上でどう両立させるかという、吐き気のする現実だった。

 カレスは舌打ちをし、「面倒な話だ、わかった、覚えとく」とだけ言い残して背を向けた。

 随分な進歩だ、何かあったら頼らせてもらおう。


 カレスが立ち去った後、今度は泥と油の混じったような重い足音が近づいてきた。軽装歩兵ペルタスタイの半隊長であり、荷駄護衛頭のミュロンだった。顔の傷と無精髭は相変わらずだが、こちらも珍しく足取りが軽い。

「よう、帳簿役。偉そうに重装ホプリタイの百人隊長殿に説教たれてたな」

「説教ではありません。相談です」

「ま、相談は大事だな、モノによるが」

 ミュロンは鼻を鳴らし、レオンの手元の蠟板を覗き込んだ。文字が読めるわけではないが、そこに並ぶ細かい線の群れから「厄介事」の匂いを嗅ぎ取る能力にかけては、この男の右に出る者はいない。

「で? いつ帰れそうなんだ」

「ケイリソポス殿が船を引いてくれば。ですが、それまでここにとどまるなら、食糧が持ちません」

「だろうな。さっき市場を回ってみたが、どこの商人もでかい商会も足元を見やがる。とはいえ、あの穀物袋の数じゃ、持って三日だ」

 ミュロンの現場勘は、レオンの帳面の計算と恐ろしいほど一致していた。

「買い上げには限界があります。周辺から調達しなければなりませんが……」

「略奪か。腹の減った連中を放てば、あっという間にそこらの村を焼き尽くすぜ」

「だから、それをさせないために頭を抱えているんです。都市との関係が瓦解がかいすれば、港の使用すら止められかねません」

 レオンがため息をつくと、ミュロンは乾いた声で笑った。

「紙の上の数字は合ってても、兵の腹は別だ。腹が減りゃ、理屈なんざ吹き飛ぶ。お偉方にそれを伝えておくんだな、主計殿(ぼっちゃん)


 ミュロンと入れ替わるように、今度はアテナイ人の将軍、クセノポンが歩み寄ってきた。

「数字の具合はどうだ、レオン」

 競技の歓声に混じることもなく、彼の顔には疲労と緊張が張り付いていた。

「最悪の一歩、いやまだ二歩手前です」レオンは蠟板を差し出した。「問題は滞在中の食糧です。買い付けだけでは破綻します」

 クセノポンは蠟板の数字を一瞥し、重々しく頷いた。

「同感だ。友好都市であるこのトラペズスを敵に回せば、我々は完全に孤立する。だから、周辺の敵対部族の領域から調達を行う。無秩序な略奪ではなく、組織だった糧秣確保だ」

「それは……また血が流れるということですね」

「残念ながらな」

 海に着いても、戦いは終わらない。食うために、また誰かが命を落とす。

「レオン、調達隊の規模と、残る者の配給計画を練り直してくれ。それから……」クセノポンは少し口ごもった。「もし、ケイリソポスの船が足りなかった場合の話だ」

 レオンの背筋が冷えた。

「……陸路、ですか」

「可能性としては、な。乗れる者と、歩く者を分けることになるかもしれない」

 乗せる者と、歩く者を分ける。

 それは、生存率という冷酷な天秤で、ここまで生き残った仲間の半分を選別する行為に他ならない。

 なんとも立派な人生だな。レオンは内心で吐き捨てた。

 塔で家政オイコノミア勘定ロギスモスを学び、立派な言葉を扱う人間になりたかった。それが今では、誰を船に乗せ、誰を泥道に置き去りにするかを計算するだけの役目だ。

 教師が好んだ言葉があった。『節度とは、己を知ることだ』と。だが、自分が同胞の命を数字で割り振る冷酷な帳簿役だと知ることに、いったい何の救いがあるというのか。結局、計算を終えたあとには、また水樽の残量と麦の袋を数えるしかないのだ。


 思考の沼に沈みかけたレオンの目の前に、不意に木杯が突き出された。

「……」

 顔を上げると、ダフネが立っていた。軽装歩兵上がりの護衛役である彼女は、いつものように感情の読めない目をしている。

 手には、水割りの葡萄酒が入った杯と、硬いパンに挟んだ塩魚。

「ダフネ。あなたは祭りに混ざらなくていいんですか」

「うるさいから抜けてきた」

 ダフネは短く答え、杯をレオンの手に押し付けた。

「飲んで。それから、食べて、あと歌っても良いよ?」

「……僕はまだ、計算が」

「食べてから数えなよ。主計殿(レオン)が倒れたら、配給が止まって私が困る」

 いつもの言葉より先に食べ物をよこすのが彼女のやり方だと、レオンはもう知っている。

 塩魚を噛みちぎり、葡萄酒で流し込む。塩気と酸味が胃に落ちて、強張っていた腹の底が少しだけ熱を持った。

「……これおいしいですかダフネ」

「まずい。けど、おかゆと比べると、かなりマシ、しかもお腹も膨れる」

 ダフネは自分の分のパンをかじりながら、海の方を見た。

「船、ないね」

「ええ。ありません」

「みんな、帰れる気になってるけど」

「おっと、気づきましたか…分かっています。だから、僕が数えているんです」

 ダフネはそれ以上何も言わず、ただレオンのそばでパンを噛み続けた。

 現場なんの解決策もない。ただ、彼女の隣にいると、少しだけ息がしやすかった。


 海風が冷たさを増していく。

 トラペズスの港は歓声に包まれていたが、レオンの帳面の上では、確実な破綻の足音が近づいていた。

 神々は、海への道は開いた、ただそれだけで、船を与えてはくれなかった。

 待てば食糧が尽きる。動けば人が死ぬ。

 希望という名の重荷が、レオンの肩にずっしりと乗せられていた。

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