第100話 蜂蜜事件...そのあとで町へ入る
レオンの背筋を這い上がった悪寒は、半刻も経たないうちに最悪の形で的中した。
(ああ、思い出すのが遅かった・・・)
「主計殿、水だ! 水をくれ!」
先ほどまで蜂蜜を啜り、べとつく指を舐めながら笑っていた若手兵のカリアスが、泥にまみれた地面をのたうち回りながら胃の内容物を激しく吐き出していた。
彼だけではない。歓声を上げて巨大な蜂の巣箱に群がっていた兵たちが、次々と腹を押さえて倒れ込み、激しい嘔吐と下痢に見舞われていたのだ。極度の酩酊状態に陥り、狂ったように笑いながら雪混じりの泥を掻き毟る者や、白目を剥いて手足を痙攣させる者までいる。
あちこちに酸っぱい吐瀉物の臭いが立ち込め、陣営はまるで、伏兵に急襲されて凄惨な敗北を喫した、死屍累々たる敗走軍そのものだった。
(…… 敵地に落ちている甘い救いなんて、裏があるに決まっているんです!
はちみつなんて金より高価なのに……)
レオンは激しい頭痛を堪えながら、慌てて帳面を外套の懐へねじ込み、空の水桶を引っ掴んだ。
この土地特有の有毒な花——おそらくはニセアカシアかシャクナゲの類——から蜂が集めた蜜だ。アテナイの塔の書物で読んだ記憶がある。古い詩人が「甘き言葉には毒あり」と歌った通りだが、腹が減った兵士に詩の教訓など通じるはずもない。
異民族の地は、こんな甘い蜜の底にまで明確な殺意を仕込んでいる。
あるいは、薬か何かに使えるものなのか?
本来的な用途が別なのか…彼らも気づいてなかったのか…
今となっては、どうしようもないが……
「テオドルス! 倒れていない奴らを引っ張ってきて!
人手が足りません!
火床を倍に増やしましょう、幸い燃やすものはたくさんあります」
レオンは怒鳴りながら、持てる限りの微弱な水魔法で桶の中に清水を満たし、火魔法の熱で湿った薪への着火を急がせた。毒を抜くには、とにかく吐かせて水分を取らせ、体を温めるしかない。
「ダフネ! ミュロン殿!
まだ立っている者を動員して湯を沸かしてください!
この場を野戦病院にします!」
「チッ、どいつもこいつも馬鹿みたいに食い意地張りやがって」
ミュロンは忌々しげに舌打ちをすると、素早い動きで倒れている兵の首ぐりから革紐を外し、無理やり水袋の口をねじ込んで喉へ水を流し込んだ。
ダフネも周りの若い兵に目配せして、あとに続く。
かれらは噎せ返る兵の背中を容赦なく叩き、胃の中の蜜を吐き出させる。優しさのかけらもない乱暴な所作だが、それが今、彼らを死なせないための最短の経路だった。
幸いにも蜜を口にしていなかったミュロンも、顔をしかめながら手近な部下を蹴り飛ばして指示を出す。
「おい、息が詰まらないように横へ寝かせろ! 吐いたものは土かぶせて埋めろ、臭いで連鎖するぞ!」
そこから、地獄のような看病が始まった。
レオンは陣の中を駆け回り、魔法を酷使して煮沸を早め、ダフネやテオドルスをこき使って湯を配り歩いた。魔法の使いすぎでこめかみをハンマーで殴られたような痛みが響き、視界がチカチカと明滅する。水魔法の代償による強い疲労と、火魔法の代償である指先の痺れがレオンの体力を急速に奪っていくが、休むわけにはいかなかった。ここで兵を半分死なせれば、海辺の町まで荷駄を運ぶ足がなくなるのだ。
幸いにも、翌日の昼頃には、死人のように転がっていた兵たちが熱病から覚めたように正気を取り戻し始めた。
死者は一人も出なかった。だが、連日の雪中行軍でただでさえ底をつきかけていた彼らの体力は、この蜂蜜の小災厄によって完全に削り取られてしまった。誰もが青ざめた顔で力なく立ち上がり、自分の足元に散らばった蜂の巣の残骸を恨めしそうに見下ろしている。
(ここまで生きぬいた軍の顔ではなく、完全に死にぞこないの顔だ)
あーあと言わんばかりのレオンは、兵たちの顔ぶれを配給帳の数字と照らし合わせながら、重い疲労の息を吐き出した。
フラフラの足取りでコルキス人の村を出発した軍が、ついにその真の目的地へ辿り着いたのは、それからさらに数日後のことだった。
幸い、そのほかの食料や布、荷車、甕、水、酒などは十分に補充できた。
村長や頭だったものの家を荒らして、ある程度の資金も手に入れた。
ペルシア平原の村とは比べ物にならないが、山岳地帯の村に比べると、格段に豊かだった。
――トラペズス。
黒海沿岸に位置する、ギリシア系の巨大な植民都市である。
切り立った城壁の向こうからは、聞き慣れたギリシア語の喧騒が響いてくる。海風が潮の香りと共に、焼いた羊肉やオリーブ油、香辛料の匂いを運んできた。
久しぶりに触れる、完全な「文明」の輪郭だった。
軍は町の外の平地に巨大な宿営地を張り、町からは友好的な市場が提供された。
ここ数ヶ月、ペルシアの奥地や雪山ではただの重い金属片に成り下がっていたダレイコス金貨や銀ミナが、ついに本来の価値を取り戻したのだ。銀貨を数枚渡せば、凍った硬い穀物や噛み切れない干し肉ではなく、ふかふかの柔らかいパンや、滴るような脂の乗った肉、そして水で薄められた上質な葡萄酒が手に入る。
市場には色とりどりの布や壺が並び、商人たちの活気ある交渉の声が飛び交っていた。
「主計殿、羊の肉と干し無花果、それに新しい天幕の布を手に入れました!」
テオドルスが、抱えきれないほどの物資を持ってテントへ戻ってくる。レオンは受け取った物資を帳面に記録しながら、久しぶりに「金で解決できる実務」の素晴らしさを噛み締めていた。誰の命を削って誰を生かすかという極限の配分から、適正な価格による取引へと世界が戻ったのだ。
トラペズスに到着して数日後、軍はこれまでの生還を祝して、神々への供犠と大々的な競技会を開いた。
ゼウスをはじめとする神々へ丸々と太った牛が捧げられ、肉が惜しみなく兵たちに振る舞われる。
広場では、馬が走るような平坦な場所がないため、急な斜面から海へ向かって駆け下り、また泥だらけになって登ってくるという無茶な徒競走や格闘技が行われていた。
「おい、そこで転ぶな! 邪魔だ!」
「そのまま海まで落ちてろ!」
兵たちは泥や砂にまみれ、笑い声を上げながら互いを罵倒し合っている。勝者が薄汚れたまま持ち上げられ、周囲から葡萄酒が浴びせられた。
その顔は、雪原で凍え、山道で石に怯え、蜂蜜で這いずり回っていた「敗走兵」のそれではなく、ただの粗野で陽気なギリシア人の顔に戻っていた。
軍は、ようやく人間らしい営みを取り戻したのだ。
これでやっと一息つける。レオンもそう思うはずだった。
だが、レオンはその喧騒から少し離れた岩場に座り込み、どんよりとした目で眼下の海を見つめていた。
祝祭の賑わいとは裏腹に、レオンの心の中には、ぽっかりと冷たい穴が空いていた。
助かった。確かに生きて、ギリシア人の町と海まで辿り着いた。だが、その事実を脳が処理し終えた瞬間、極度に張り詰めていた「実務責任者」としての糸がふっつりと切れ、膝の奥から小刻みな震えが止まらなくなってしまったのだ。
(僕たちは、本当に助かったのか……?)
市場でパンが買えた。温かい天幕で眠れた。
だが、冷酷な主計の計算は終わらない。目の前に広がる真っ青な海には、(半分近くに減ってはいるものの)一万近い軍勢を丸ごと故郷へ運んでくれるような大船団など、どこにも停泊していなかった。
町が提供してくれたのはあくまで一時的な市場であり、一万人の男たちを養い続けるだけの蓄えはトラペズスにはない。数日もすれば、また銀貨が尽きるか、あるいは、先に、町の食糧が尽きる。
海が見えたからといって、無条件で帰れるわけではない。ここからさらに陸路を行くのか、莫大な金を払って船を集めるのか。どちらにせよ、まだこの軍の命運を維持し、異国を這いずり回らなければならない現実は何も変わっていなかった。
しかも、今度は金策だ。
山地民や、山岳民から略奪はできたが、それだって知れている。
これだけの集団を動かすにはもっと金が必要なのだ。
「……」
不意に、視界の端に土焼きの杯が差し出された。
見上げると、ダフネが立っていた。彼女は何も言わず、湯気を立てる温かい葡萄酒の杯をレオンの横の岩に置いた。
レオンの憂鬱を見透かしたかのように、内側から体を温めるものだけを置いていく。
「……ありがとう」
レオンが杯を両手で包み込むと、じんわりとした熱が冷え切った指先に染み込んでいった。ダフネは少しだけ口角を上げると、「はちみつ入り」と、なんとも判断に困ることを言い残して、祭りの輪には加わらず、再び市場周辺の巡回と警戒に歩き去っていった。
入れ替わるようにして、ミュロンが通りかかった。
彼は大きな酒袋を肩に担ぎ、少しだけ赤い顔をしていたが、足取りはしっかりしていた。彼は岩場に座り込むレオンの姿を認めると、一度だけ足を止め、低い声で言った。
「……死なずに済んだな」
「ええ。今のところは、ですが」
レオンが皮肉めかして返すと、古参の下士官は鼻で笑い、無言のまま去っていった。その短いやり取りに、言葉以上の重い信頼が滲んでいた。山越えの修羅場をしのぎ切ったことで、ミュロン達、古参からは対等の相手だと認めてもらえるようになった。
レオンは温かい葡萄酒を一口啜り、再び海を見た。
「うへぇ、ほんとにはちみつ入りだ......」
寄せては返す波の音が、彼の独り言と祭りの喧騒を吸い込んでいく。
カルドゥコイの山は越えた。アルメニアの雪も抜けた。海には出た。だが、故郷に帰るための十分な路銀も、全員を乗せる船も、明確な統率も、まだこの軍にはない。
生きて帰るための戦いは、まだ終わっていなかった。




