第99話 高所は列を組んで踏破せよ
一夜明けた。
海を見たという熱狂は、翌朝の冷たい風と空っぽの胃袋によって、あっさりと吹き飛ばされた。
人間は実に現金なものである。という一言で済ませてよいのかはわからないが・・・生き物として正しい反応なのだろう。
テケス山の山頂から下りた軍は、まずマクロネス人の領地を通過した。幸いなことに彼らとは互いの槍を交換して誓約を結ぶことができ、血を流すことなく安全な通行と、細々とした市場の提供を得られた。
兵たちは銀貨を払い、久しぶりに干し肉以外の硬いパンを齧った。
山岳民族の拠点を攻略し、懐が豊かだったのも幸いした、いや、禍か?
それで「もう戦わずに海まで下りられる」と錯覚してしまった。
これが間違いだった。
その先のコルキス側の国境に差しかかった時、前衛はまたしても重い足を止めることになった。
目の前に立ち塞がるのは、見上げるような急勾配の巨大な高地だった。そして、その稜線に沿って、コルキス人の軍勢がびっしりと盾を並べていたのだ。
(海を見ても、腹は膨れないし、道が平らになるわけでもない)
レオンは、雪解けの泥水をたっぷり吸って膨れ上がった生皮の靴で地面を踏みしめながら、内心で深くため息をついた。
わかっていたことだ。海はあくまで海であり、安全な家ではない。だが、一度「助かった」と気を緩めてしまった兵たちにとって、再びこの急斜面を登り、上から降り注ぐ石や矢の中で殺し合いをさせられるイラ立ちは、かなりのものだった。
凍てつく風の中、最前線の斜面下で将軍と隊長たちによる軍議が開かれた。
前衛を預かるケイリソポスが、険しい顔で敵の陣形を睨みつける。
「まともに方陣(横隊)を組んで登れば、必ず真ん中が凹む。地形が悪すぎるし、敵の横並びの方が長い。こちらの両翼が包み込まれるぞ」
重装歩兵の分厚い横列は、平らな戦場においてこそ最強だ。だが、山腹の岩や雪の凹凸では足並みが揃わず、すぐに隙間ができて陣形が瓦解する。
「ならば、方陣を組むのはやめよう」
クセノポンが、地面の雪を靴先で払いながら言った。
「隊を細かく分けるんだ。百人隊をさらに細分化し、分隊ごとの縦列を作る。そして列と列の間に大きく間隔を空け、それぞれに斜面を登らせる」
その言葉に、古参の隊長たちが一斉にざわついた。重装歩兵側の顔役であるカレスが、堪えきれないというように唾を吐き捨てる。
「本気で言ってるのか! 隙間だらけの陣形で突っ込めだと? 横の繋がりがねえ重装歩兵なんて、ただの的だ! 敵に隙間を抜けられて横腹を突かれたら終わりだろうが!」
怒号のような反発が上がる中、クセノポンは表情を変えず、視線を後方のレオンに向けた。
「主計。兵の足の余力と、負傷者の運搬限界を教えてくれ。横一線で押し上げて泥沼の白兵戦になった場合と、縦列で一気に高みを抜いた場合、損耗はどう変わる」
軍事指揮の柱が、実務屋に裏付けを求めたのだった。
レオンは、いくつか前提条件を尋ねた後、冷気でこわばる指に息を吹きかけながら、抱えていた帳面を開いて、過去の記録から推計を確認した。
数字はすでに頭の中で弾き出されている。
「いただいた前提を元に弾けば、今の兵の脚力では、横隊を組んで斜面を登り切る前に、およそ三分の一が地形に足を取られて列から遅れます。そこで上から押されれば、接敵する前に陣が割れます。結果、敵陣にたどり着けずに崩れます。
過去の崩れたときは、だいたい三百はくらいは脱落してます…
つまり、死人が、それくらい出るでしょう」
レオンは冷たい息を吸い込み、カレスをはじめとする隊長たちの顔を見回した。
「……現在、生き残っている荷駄獣と荷車の数、そして歩ける兵の体力から計算して、我々が運べる重傷者は三十人が限界です。
死人が三百でれば、百くらいは重傷視野がでます。
それを超えれば、見捨てるか、トドメをさすしかありません」
見捨てる、という言葉に、カレスの顔がわずかに引きつった。
「縦列なら、カレス殿の仰る通り隙間を抜かれる危険はありますが、足の止まる時間は短い。接敵までの体力の消耗を考えれば、縦に割って突っ切る方が、結果的に荷駄が崩れません、つまり総合的な観点では死人が減ります」
人をどう生かし、どう運ぶかという物理の限界だ。軍において、主計の弾き出した「これ以上は運べない」という数字ほど残酷で絶対的なものはない。
しかし、カレスの顔を見れば、お前には人の心がないのか…と語っていた。
「聞いた通りだ」
クセノポンは力強く頷いた。
「無理に横に押しだすな。縦列で…三列列縦隊で、噛み砕け。敵は我々が隙間だらけで登ってくるのを見て、必ず包囲しようと横へ広がるはずだ。結果として敵の中央が薄くなる。そこを縦列の厚みで突破する」
号令が下った。
軍はこれまでの分厚い壁のような陣形を捨て、槍のように細長い縦列をいくつも形成した。
「立ち止まるなよ! 止まれば石の餌食だ!」
ミュロン率いる軽装歩兵が、列の隙間を縫うように先行し、投石紐で鉛弾を放って敵の注意を引く。その後ろから、重装歩兵の縦列が泥にまみれた斜面を這い登り始めた。
レオンは後方の荷駄列の傍らに立ち、息を詰めてその光景を見守っていた。
ダフネがレオンの斜め前に立ち、短い槍を握り直す。彼女の背中は張り詰め、上から何かが降ってくれば、いつでもレオンを突き飛ばして守れる重心を取っていた。
斜面の上から、敵の矢と石が雨のように降り注ぐ。
だが、ギリシア軍は横に広がっていないため、多くの投射物は列と列の間の雪面を虚しく叩くだけだった。カン、カンと青銅や木の盾が石を弾く音が斜面に響く。兵たちの荒い息遣いと、泥を蹴り上げる軍靴の音が重なる。
クセノポンの読み通り、上部のコルキス軍は、隙間だらけのギリシア軍を包み込もうと左右へ移動を始めた。その結果、敵陣の中心部が極端に薄くなる。
「今だ! 抜け!」
アガシアスをはじめとする隊長たちの怒号が響き、縦列の切っ先が一気に敵の中央を食い破った。薄くなった陣を完全に分断されたコルキス人たちは、恐慌を起こして散り散りに逃げ出していく。
勝敗は、呆気ないほど一瞬で決した。
何の事とはない、敵の士気は低く、いらだちが限界を超えていた味方の士気は高かったのだ。
言い換えると、憤慨し興奮した肉食獣の前に、羊の群れを差し出したようなものだった。
「……抜けましたね」
レオンが安堵の息を漏らした直後、ダフネが短く言った。
「仕事、増えるよ」
彼女の言う通りだった。
正面で完全にすり潰されることこそ回避したものの、急斜面の駆け上がりと白兵戦の代償は確実に戻ってきた。
尾根を越え、コルキス人の村々に辿り着いた兵たちは、武器を放り出して次々と泥まみれの地面に倒れ込んだ。槍傷を負った者、岩で足を砕いた者、そして無理な登攀で肺を痛めてむせる者。
レオンは休む間もなく、微弱な水魔法で傷口洗浄用の桶に清水を満たし、火魔法も使って煮沸を急がせた。なけなしの包帯布を切り裂いて配って回るが、数が足りない。魔法を酷使した代償で、こめかみをハンマーで殴られたような頭痛が響く。
あちこちでコルキス人の村から略奪をしている兵の姿を横目に見つつ、頭痛を抑え込んで作業を続けた。
勝っても疲れ切り、荷と傷病者がさらに増える。これが撤退戦の現実だ。
そしてレオンは思った。
(やっぱりどうひいき目に見ても山賊の群れだな……差し詰め僕は山賊の宝物庫の番人か)
そして、日が暮れかかる頃。
村の奥を探索していた兵たちが、歓声を上げながら戻ってきた。
「おい、見ろ! 蜂蜜だ!」
彼らの手には、木をくり抜いて作られた巨大な養蜂箱がいくつも抱えられていた。
村のあちこちに、黄金色に輝く蜜をたっぷり蓄えた蜂の巣が残されていたのだ。何週間も硬い穀物と干し肉しか口にしていない兵たちにとって、それは神の賜物のような光景だった。
「主計殿! 毒見は俺たちが済ませた! 甘えぞ!」
カリアスら若手兵たちが、指を蜜でべとべとにしながら笑っている。あちこちで兵たちが巣を割り、狂ったように甘い蜜を啜り始めていた。
レオンは、配給帳を片手にその様子を遠巻きに見ていた。
確かに、糖分は兵の体力を劇的に回復させる。これだけの量があれば、数日は穀物の配給を節約できるかもしれない。実務の帳尻が合うことに、レオンも一瞬安堵しかけた。
しかし、レオンの背筋に、得体の知れない悪寒が這い上がった。
(……いくら腹が減っているとはいえ、食いつき方が異常ではないか?)
蜜を啜る兵たちの顔が、妙に赤く上気している。カリアスの焦点が、どこか虚空を彷徨っているように見えた。
山を越え、海を見て、ようやく見つけた甘い救い。
だが、この過酷な異民族の地が、彼らに無条件の恩恵を与えることなど、本当にあり得るのだろうか。
ふと、昔、塔で学んだ知識が頭をよぎった。




