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第98話 海だ…海だ!海だ!

 案内人が約束した「五日目」の昼下がり。

 ギリシアの傭兵軍は、テケス山と呼ばれる急峻な稜線に向かって、泥にまみれた蟻の列のように這い登っていた。


 道とは名ばかりの、荒い岩肌と雪が混じる斜面である。兵たちの足元を包む生皮のカルバティナイは底が完全にすり減り、雪解けの泥水を吸って膨れ上がっていた。凍りついた革紐が足首を無惨に締め付け、一歩踏み出すごとに皮膚を削り取っていく。

 荷駄を引く獣も、車輪も、とうの昔に限界を超えていた。

「押せ!

 そこで止めるな!

 持ち上げろ!

 まて、そこは車軸が折れるぞ!右下も持て!」

 古参の荷駄頭であるバウコスが、土埃と泥にまみれた顔で怒鳴り声を上げる。

 木と金属が擦れる悲鳴のような軋み音が斜面に響き、荷車が岩に引っかかるたびに列全体が止まり、そしてまた鈍く動き出す。


(これで海が見えなかったら、軍は今度こそ完全に瓦解する、士気が持たない)

 レオンは、揺れる荷車に肩を押し当てながら、必死に斜面を登っていた。

 懐には湿った羊皮紙の帳面が重く張り付いている。あと五日という「希望」を前借りして、兵たちに無理な行軍を強いた結果、残存する体力はすでに底を突いていた。配給も限界まで切り詰めている。もしこの稜線の向こうに、また同じような見渡す限りの雪山が広がっていたら、兵たちは武器を捨ててその場に座り込むだろう。主計としての計算が、そう残酷に告げていた。


 その時だった。


 はるか上方、前衛の先頭が稜線に差しかかったあたりから、巨大な地鳴りのような響きが転がり落ちてきた。


「わあぁぁぁっ……!」

 それは、何千もの人間の喉から絞り出されたような、異様な咆哮だった。

 後衛で喘いでいた兵たちの顔色が一斉に蒼白になり、列の動きがピタリと止まる。疲労しきった脳が真っ先に弾き出した結論は、一つしかなかった。


「敵か!」

「警戒!

 盾を構えろ!」

 半隊長のミュロンが反射的に剣の柄に手をかけ、部下たちを怒鳴りつけた。彼自身も、前方の見えない高みから敵が雪崩れ込んでくるのを確信したような、凶悪な目つきになっている。

 レオンも咄嗟に荷車の陰へ身を投げ出し、息を潜めた。隣ではダフネが素早く短槍を構え、レオンを庇うように低い姿勢を取っている。

(ここまで来て、まだ戦うのか。もう兵に余力なんかないぞ)

 レオンの心臓が、恐怖で早鐘のように打ち鳴らされた。


 だが、上から降ってくる音は、剣が肉を裂き、人が死ぬ時の悲鳴ではなかった。

 ――カン、カン、ガンッ!

 硬い木や籐の盾の裏を、槍の石突きで規則正しく打ち鳴らす音。それは、軍が神に勝利の感謝を捧げる時や、熱狂に包まれた時にのみ鳴らす、ギリシア人特有の歓喜の響きだった。


 音が、波のように後ろへ伝播してくる。

 稜線から大部隊長たちへ、百人隊長へ、そしてレオンたちのいる荷駄の後方列へ。

 前方から雪と泥を跳ね上げながら駆け下りてきた伝令の若者が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を振り乱して叫んだ。

「海だ! 海が見えるぞォォォッ!」


 一瞬の完全な静寂。

 次の瞬間、荷駄の周りでも爆発的な歓声が上がった。

 兵たちが重い荷を雪の上に放り出し、誰もが狂ったように斜面を駆け上がり始める。いつもなら「隊列を乱すな」と怒鳴り散らすはずのミュロンでさえ、この時ばかりは剣を鞘に収め、荒い息を吐きながら上を目指していた。

 レオンも無我夢中で斜面をよじ登った。冷たい空気が肺を焼き切るように痛んだが、足が勝手に動いていた。


 やがて、視界が開けた。

 テケス山の頂。吹きすさぶ冷たい風の中、眼下に広がる遥か遠い地平の先に、鈍く光る巨大な青い帯が横たわっていた。


――海。

 ただの青い景色ではない。あれは世界を繋ぐ道だ。あそこまで降りていけば、トラペズスというギリシア系の植民都市があるはずだ。船がある。市場がある。故郷のボイオティアへ、あの見慣れた故郷の土へ繋がる航路がある。


「海だ……海だぁ……!」


 レオンの少し前で、誰かが子供のように嗚咽を漏らした。

 見れば、いつも前線で配給の少なさに悪態をついていた重装歩兵のソテリダスが、誇りであるはずの重い青銅の盾を放り出し、泥の上に両膝をついて泣きじゃくっていた。

 周囲では、狂乱した兵たちが次々と周辺の石を拾い集め、神々への感謝と、ここまで到達した証として、巨大な石塚ケルンを積み上げ始めている。


(海だ、ではない)


 レオンは、遠い青を見つめながら、ゆっくりと白く震える息を吐き出した。


(海がある、だ…まだ遠い……でも…見えた…)


 自分たちは本当に、魑魅魍魎の住むペルシア帝国の心臓部から、雪と飢えと山地民の襲撃を越え、この泥だらけの足でここまで歩き抜いてきたのだ。その事実が、胸の奥で重い熱の塊となって弾けた。


 だが、歓喜に包まれる周囲の喧騒とは裏腹に、レオンの膝からは急速に力が抜け始めていた。

 助かった、と脳が錯覚した瞬間に、これまで「主計の責任」という強固な枷で無理やり縛り付けていた疲労、飢え、そして恐怖が、一気に肉体へ逆流してきたのだ。


(ああ、駄目だ。立っていられない)


 視界が暗く揺れ、雪の上に崩れ落ちそうになった瞬間。

 強い力で、右の二の腕を掴み上げられた。


ダフネだった。

 彼女はいつもなら、レオンが転びそうになっても無言で肩を貸すか、背中を支える程度の介入しかしない。だが今は、レオンの腕を両手で食い込むほどぎゅっと掴み、決して離そうとしなかった。

 分厚い布越しでもわかる。彼女の指が、小刻みに震えている。


「ダフネ……」

「……見えた」

 ダフネは遠い海から目を離さないまま、ぽつりと呟いた。その声は酷く掠れ、いつもの乾いた響きはなかった。

 レオンは痛いほど掴まれた腕の感触に、ハッとした。

 辛口で、現実的で、決して弱音を吐かず見捨てもしなかった彼女もまた、限界まで削り切られていたのだ。彼女が今立っていられるのは、ただ「この帳簿役を死なせない」という執念だけで動いていたからだ。


 しかし、レオンの頭の中にある冷酷な主計の思考は、感動の余韻の中でも容赦なく現実を計算し始めていた。


(海は見えた。だが、ここはまだ山の頂だ。足元には冷たい石と雪しかない)


 パンを売る市場も、凍える体を温める麦酒もないのだ。

 あの青い帯まで、ここからさらに何日歩くのか。山を下る間に、また見知らぬ異民族の領地を抜け、血を流す必要があるのではないか。ここで緊張を解いてしまえば、明日歩けなくなる者が何百人も出る。


 レオンは、自分の腕を掴むダフネの震える手に、そっと自分のあかぎれだらけの手を重ねた。そして、稜線の向こうへと続く、まだ見ぬ長い下り道を見据えた。


 帰還は、まだ終わっていない。

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