第97話 五日先に海
血を払って食い物を得るか。腹を空かせたまま、ただ通り過ぎるか。
この数週間、軍はその極端な二択を絶え間なく突きつけられていた。
ただ、最悪の、地獄の七日間はなんとか超えた。
あの時に比べればマシだ、と皆が思うことができただけ、軍に士気が戻った。
タオコイ人の地では、彼らが食糧のすべてを険しい岩山の砦に運び込んでいたため、軍は無理攻めを強いられた。
砦の硬い石壁を登り、岩や石弾が降り注ぐ中を突破するために、夥しい血が流れた。主計の帳面からはいく人もの名前が永遠に消え、代わりに得たのは、血だまりの中に転がる麦袋と数十頭の家畜だった。
「おい、帳簿役! この麦袋を乗せる場所を空けろ!」
泥と血にまみれた重装歩兵の顔役、カレスが怒鳴り込んできたのは、砦を落とした直後のことだった。彼の後ろには、戦利品の麦袋を抱えた重装歩兵たちが不満げな顔で並んでいる。
「俺たちが血を流して奪った穀物だ! 早く荷車に積め!」
レオンは揺れる荷車の上で、湿った羊皮紙の帳面から顔を上げた。冷え切った指先はあかぎれで割れ、微弱な火魔法でどうにか炭の欠片を握る感覚を保っている状態だ。
雪が少ない所の方が、寒さを感じるというのは嬉しくない発見だった。
「無理です、カレス殿。もう簡易で作ったソリ荷台が使えません。車輪付きの荷車は、そんなに数がないんです。
あ、ちなみにその荷車には、今から脚を砕かれた重傷者を乗せます」
「はあ? 負傷者なんぞ歩ける奴に担がせろ! 飯がなきゃ戦えねえんだぞ!」
レオンは短く息を吐いた。だいたい、重装歩兵という連中は、自分の手柄と胃袋の優先順位を世界で一番高いと勘違いしている。
「歩ける者はすでに武器と盾で手一杯です。これ以上担がせれば、明日の行軍で彼ら自身が倒れます」
レオンは帳面を閉じ、冷たい声で言い放った。
「食糧は各自で背負ってください。できなければ捨てます」
「てめえ……!」
カレスが一歩踏み出し、分厚い手でレオンの胸倉を掴もうとした瞬間、横から伸びてきた槍の柄がカレスの胸当てをガンッと叩いた。
「おっと、そこまでにしとけ」
軽装歩兵の半隊長、ミュロンだった。彼は無精髭の生えた顎を掻きながら、面倒くさそうに片目でカレスを睨みつける。
「うちの帳簿役の計算が狂うと、明日てめえらの口に入る粥まで消えるんだぜ。
負傷兵を見捨てて飯を車に乗せりゃ、次はてめえが足を怪我した時に雪の中に放り出されるってことだ。
少しは頭を使え」
カレスは忌々しげに舌打ちをし、「自分の食い物は自分で持つ!」と部下たちに怒鳴り散らしながら戻っていった。
(……全く……百人隊長なら全体を見てほしいもんだね…)
レオンは内心で毒づきながら、再び帳面を開いた。数字を合わせ、誰を歩かせ、誰を荷車に乗せ、どの荷を捨てるか。
実務の計算が、そのまま彼らの命の長さを決めていく。
ぱっと見トドメを指した方が早そうな人を見捨てられないのも、計算を重たくしていた。
(我ながらだんだんと人間離れしていくなぁ)
続くカリュベス人の地は、さらに最悪だった。
彼らは鉄を扱う好戦的な民で、村々をあらかじめ焼き払ってから山腹に潜み、執拗に軍の後衛を削ってきた。ここでは食糧すら得られず、ただ焼けた木材の焦げ臭さと、またしても増える負傷者のうめき声だけが列に充満した。
そこを何とか抜け、スキュテニア人の平地へ出た時、兵たちはようやく険しい山道から解放された。だが、平地の冷たい風は歩きやすくはあっても、カツカツで回して来た配給の煽りで、空っぽの胃袋に、グッと堪える。
ただただ足元の生皮の靴がすり減って雪と泥にまみれ、凍った革紐が足首を無惨に締め付けているのを強く感じさせる。
(食える場所では人が死に、人が死なない場所では食えない…やれやれ冗談じゃない)
極限の疲労と飢えが、軍全体を濃い影のように覆っていた。山の向こうに海があるという曖昧な噂だけで、よくこれだけの人数が歩き続けているものだ。
そんな擦り切れたボロ切れのような行軍が、ギュムニアスと呼ばれる大きな町に辿り着いた時だった。
町の長は、この得体の知れない武装集団を城壁の中に入れることは頑なに拒んだが、代わりに食料と情報をくれた。
情報とは、一人の案内人だった。
つまり厄介な傭兵団を、一刻も早く自分の領地から追い出すための取引だ。
凍てつく風の中、全軍の前に引き出された案内人は、将軍たちと無数の兵士たちを見回し、平然と言い放った。
「私についてこい。五日で海が見える場所へ案内してやる。もし嘘なら、私を殺して構わない」
――海。
その一言が、凍りついていた軍の空気を一瞬にして一変させた。
どよめきがさざ波のように広がり、やがて爆発的な歓声に変わる。海に出れば、ギリシア人の植民都市がある。船がある。市場がある。故郷に繋がる道があるのだ。
レオンの実感からすれば、海はずっと「いつか着くかもしれないおとぎ話」でしかなかった。それが突然、「五日」という具体的な日数と距離に変わった。
兵たちが槍を突き上げ、歓喜の声を上げる中、レオンだけは重い荷車の横で帳面を見つめ、嫌な汗をかいていた。
その日の夕営。
軍の空気は、不気味なほど浮き立っていた。
いつもなら数少ない火床を巡って陰惨な奪い合いが起きるのに、今日はあちこちで笑い声すら聞こえる。
「あと五日だ」
「海が見えればこっちのものだ」と、誰もが陽気に語り合い、なけなしの麦や干し肉を気前よく齧っている。
「……完全に浮き足立っていますね」
見張りのための火床のそばで、レオンは思わず呟いた。
隣に座るダフネが、舌打ちをして焚き火に小枝を投げ入れた。
「馬鹿みたい。
まだ着いたわけじゃないのに」
彼女はそう言うと、自分の懐から硬く凍った干し肉の欠片を取り出し、無言でレオンの胸に押しつけた。それから、レオンの外套の首元を無遠慮に引き寄せ、緩んでいた留め具を強く締め直す。
「海が見えたって、凍えれば死ぬ。レオンは食べて」
「……ええ。ありがとうございます」
干し肉を噛み締めると、顎の骨が軋むように痛んだ。だが、その痛みがレオンを現実に引き戻してくれる。ダフネの言う通りだ。希望で腹は膨れないし、体温も上がらない。
兵たちは足取りが軽くなったように見えるが、それは希望を前借りしているだけだ。気を抜いて体温を奪われれば、翌朝には起き上がれなくなる。
「あと五日だから」と配給を先食いしてしまえば、天候が崩れて一日でも行軍が遅れた瞬間、軍は完全に瓦解する。
レオンが炎の明かりで帳面を睨み直していると、雪を踏む重い足音が近づいてきた。
「主計監。少し良いか」
クセノポンだった。将軍の一角として前へ出るようになった彼は、どこか険しい目つきで火床を見下ろしていた。
「五日分の足と食は、持つか」
短い問いだった。彼は兵たちの浮かれ具合を見て、演説で空気を締める前に、まず実務の裏付けを取りに来たのだ。
「今の損耗率と、今日の配給量を維持できれば……数字の上では足ります」
レオンは立ち上がらずに、帳面の炭の跡を指差した。
「ですが、案内人が言ったのは『海が見える場所』です。海が見えたその日のうちに、市場でふかふかのパンが買えるわけではありません。あそこから海浜の町へ降りるのに、さらに数日はかかるはずです」
だいたい、兵たちは「海を見ること」と「家に帰ること」を混同している。海辺の町に入り、そこで越冬するか船を雇うかしなければならないのに、彼らの頭の中では海イコール救済になってしまっている。
「……そうだな」
クセノポンは苦笑を漏らし、顎を撫でた。
「海が見えても、腹は膨れない。その通りだ。今の連中は、五日ぶんだけ命を先食いして走ろうとしている。これを放置すれば破綻する」
「ええ。話の通じる百人隊長や半隊長にも頼んで、荷駄の並びと配給の管理はさらに厳しく絞ります。恨まれるでしょうが、死ぬよりはマシです」
「頼む。前衛の手綱はこちらで引こう。急ぎすぎれば、必ず後ろが切れる」
クセノポンはそれだけ言うと、自身の隊の方へ戻っていった。言葉少なに、必要な事実だけを交わす。主従ではなく、軍を動かす側と軍を生かす側、別々の責任を持つ者同士の噛み合いがそこにあった。
翌朝、軍は案内人に率いられて進発した。
目指すのは、案内人が指し示した遥か遠くの稜線――テケス山。
風は依然として冷たく、兵たちの足元の靴はボロボロだ。しかし、彼らの歩みは異常なほど速かった。
「おい、前を詰めるな! 荷車が追いつけねえだろうが!」
ミュロンの荒々しい怒鳴り声が、列の中腹で響く。希望に急かされた前衛の兵が、無意識に歩調を速めて隊列を伸ばしてしまうのだ。
レオンは泥に沈む荷車を押し上げながら、頭の中で日数を数えた。
五日。
あと五回、この陽気で無謀な前進の空気を御しきれれば、確かに海は見えるだろう。だが、もし一日でも計算が狂えば、この希望は一転して最悪の絶望に裏返る。
冷たい平地の風が、レオンの頬を撫でて、遠い稜線の向こうへと吹き抜けていった。




