第96話 ファシスの峠
白く凍てついた雪原を抜け、ようやくたどり着いたファシス川の岸辺で、兵たちは雪混じりの泥の上に重い木盾を投げ出した。
氷の塊がゆっくりと流れる大河をどうにか渡り切ったというのに、誰の顔にも安堵の色はない。彼らの虚ろな視線は、川の向こうにそびえる険しい峠の稜線へと釘付けになっていた。
雪で白く染まったその高みに、黒い染みのような無数の人影が横隊を組んで立ちはだかっていたのだ。
偵察に出た軽装歩兵の報告によれば、カリュベス人、タオコイ人、ファシアノイ人といった山地民の混成勢力らしい。彼らは自分たちの領域を侵すよそ者を、文字通り「見下ろす」位置で待ち構えていた。
(山を一つ越えたくらいで帰れるなら、ここまで苦労はしていない……か)
僕は湿った羊皮紙の帳面を懐にしまいながら、何度目かの深いうんざりとともに冷え切った白い息を吐き出した。
兵の体力は、すでに底を突いている。七日間に及ぶ絶望的な日割り配給と、北風の吹きすさぶ雪中行軍は、彼らの筋肉から脂を削ぎ落とし、頬を痩せこけさせていた。足に巻いた生皮の靴は凍りついて皮膚に食い込み、まともに歩くことすら苦痛な状態だ。
ただ、ギラギラとした目だけは、目立っていた。
そんなボロボロの状態で、あの急勾配の雪山を登り、待ち構える敵の槍衾に突っ込めというのか。
だが、退路はない。あの峠を越えなければ、僕たちはこの凍てつく谷底で全滅する。
雪と泥の混じる地面に槍を突き立て、将軍たちが臨時の軍議を開いていた。
輪の中心にいるのは、前衛を預かるラケダイモン人のケイリソポスと、軍全体の方針をまとめるアテナイ人のクセノポンだ。僕は兵站と実務の責任者として、将軍たちの少し後ろに控え、彼らの言葉に耳を傾けていた。僕の斜め後ろでは、ダフネがいつものように北風を背中で遮る位置に立ち、静かに周囲を警戒している。
「もたもたしている暇はない。敵がさらに増援を呼ぶ前に、この勢いのまま斜面に取り付くべきだ」
ケイリソポスが、苛立ちを隠せない声で短く切り捨てた。
彼は常に、速度と攻撃力を重視する。
後衛が川を渡り終えるのを待たず、前衛だけでも突撃させて敵陣を崩そうというのだろう。
「待ってくれ、ケイリソポス殿。兵の消耗が激しすぎる」
クセノポンが落ち着いた声で反論した。
「正面から力押しで登れば、敵の投石と槍の的になるだけだ。まずは陣を敷き、夜陰に乗じて軽装歩兵を別経路から山頂へ回し、高所を盗む戦術をとるべきではないか」
「夜を待てば、それだけ凍え死ぬ者が増える。ここには火を焚くための薪すらないんだぞ」
ケイリソポスの言葉に、軍議の場に重い沈黙が落ちた。
戦術の理屈としてはクセノポンが正しい。だが、現場の現実としてはケイリソポスの言う通りだ。兵たちは凍えている。動かなければ死ぬ。
だが、動いても死ぬのだ。今のままでは。
「……お待ちください」
僕は思わず、冷たく強張った唇を開いていた。
将軍たちの視線が一斉にこちらを向く。一介の主計が軍議に口を挟むなど、平時であればあり得ないことだ。たとえそれが正主計官の代行権限を持っていても。
ただし今は平時ではない。
「なんだ、帳簿役。兵站の数字が合わないとでも言うのか、どうしたってもう、いくばくも残ってないんだろう?」
ケイリソポスが鋭い、そしていらだちを含んだ視線を向けてくる。
「いえ。
数字ではなく、兵たちの体力の観点からの提案でふ」
僕は一歩前に出た。極度の緊張で声が震えそうになるのを、必死に腹の底へ押し込む。
「一口で良いので、なにか食わせてからでないと、あの斜面は登れません」
将軍たちが僕の越権行為に眉をひそめる中、僕は言葉を継いだ。
「兵たちは昨日から、凍った干し肉の切れ端と、歯が欠けるほど硬い大麦の粒しか口にしていません。胃にろくに物が入っていない状態で、あの雪の斜面を登ればどうなるか。敵の槍が届く前に、心臓が破裂するか、足が止まって滑落します」
「だからこそ、急ぐのだ。腹が減って動けなくなる前にな」
「もう動けないんです」僕は言い切った。
「今のまま突撃を命じても、精兵は別にして、普通の部隊の隊列は途中で必ず瓦解します。
戦列から落ちた兵は、敵の恰好の的になる。
……無駄な死傷者を増やせば、ここを乗り切っても峠を越えた後で、行き詰まります。荷物は増え、運び手は減るのですから」
戦術論ではない。軍議の場で素人がもうそうまみれの武功話を語るつもりもない。
僕はただ、水と食糧と、兵の肉体の限界という「現物」を突きつけていた。
「……主計殿の言う通りだ」
低く枯れた声が、僕の言葉を後押しした。輪の外縁に立っていた半隊長のミュロンだ。
「あんたらの立てる立派な戦術は分からねえが、兵の足はもう死んでる。空きっ腹のまま雪山を走らせりゃ、上に着く頃には武器を振る力も残っちゃいねえよ」
現場の古参兵の言葉に、重装歩兵の顔役であるカレスも渋々といった顔で頷いた。
クセノポンは僕とミュロンの顔を交互に見た後、深く頷いた。
「……分かった。レオンの言う通りだ。まずは兵に食わせよう。みなそれでどうだろうか?」
クセノポンは僕の損耗見積もりを前提に、軍議の方向性を切り替えた。
「食事を摂らせている間、敵には我々が休息に入ったと見せかける。そして十分に腹を満たした精鋭の軽装歩兵を、死角から山頂へ向けて登らせる。正面には重装歩兵の横隊を薄く広げ、敵の注意を惹きつける」
戦術が決まり、各隊に短い休息と朝食の指示が下された。
とはいえ、温かい粥が食えるわけではない。兵たちは盾の上に座り込み、微かに残った大麦の粒を雪水と一緒に無理やり噛み砕いて胃に流し込んでいた。僕もダフネから渡された水袋の残りを飲み、僅かな穀物を齧る。顎が痛くなるほど硬いが、これを飲み込まなければ体に熱が生まれない。
「あの場で、よく言ったね」
ダフネが僕の隣に座り、短く言った。
「事実を言っただけです」
「レオンの帳面が、今日は何人か兵隊の命を救った」
彼女はそれだけ言うと、短槍の穂先を布で黙々と拭き始めた。
一刻ほどの後、軍は動き出した。
クセノポンの指示通り、重装歩兵が川沿いに陣形を広げ、敵の視線を釘付けにする。その隙に、ミュロンたち軽装歩兵の部隊が、森の陰に隠れた険しい斜面から山頂を目指して登り始めた。息の詰まるような時間が流れた。
やがて、山頂付近の雪煙の中に動きがあった。迂回していた味方の部隊が、敵の側面に食いついたのだ。
「行け! 押し上げろ!」 ケイリソポスの号令とともに、正面の重装歩兵たちも一斉に急斜面を登り始める。
戦いは、長くは続かなかった。
側面を突かれ、高所を奪われる恐怖に駆られた山地民たちは、強固な陣形を維持しきれずに雪の斜面を逃げ散っていったのだ。
軍議の読み通り、隊単位の連携と間隔を使った戦術が見事に機能した。正面から無謀に突っ込ませるのではなく、食わせて機動力を戻し、誰をどこへ当てるかを詰めた結果の勝利だった。
軍としての機能は、まだ死んでいない。
だが、僕の帳面には、決して無視できない失敗が刻み込まれることになった。
「主計殿、包帯布が足りねえ! 傷治師を呼んでくれ!」
峠の上に仮の陣地を敷いた直後から、あちこちで悲鳴に近い声が上がり始めた。
勝ったとはいえ、急勾配の雪山を真正面から重武装で登攀した代償は大きかった。敵の投石で頭や肩を割られた者、足を滑らせて斜面を転げ落ちた者、そして何より、無理な運動で完全に体力を使い果たし、雪の上に倒れ込んで動けなくなった兵が続出していた。
僕は僅かな傷薬と包帯布を抱え、負傷者の間を駆け回った。微弱な水魔法で傷口を洗い流し、化膿を防ぐことしかできない自分の無力さに苛立ちながら、一人でも多くの命を戦列に繋ぎ止めようと足掻く。
敵が脆く崩れて、それなりの物資を残していったことが幸いだった。
とはいえ…毒が入ってないとも限らないので、一つ一つ吟味しないと使えない。幸い僕は、魔法で判別できたので、負傷兵の治療に使うものだけは選別できたが、多くの兵は、食べれそうなモノ、でも食べたら死ぬかもしれないモノを目の前にしてお預けだった。
兵の疲れは隠せない。勝っても、消耗は確実に軍の骨組みを軋ませている。
数刻後。
ようやく負傷者の処置を終え、僕は峠の最も高い場所から、これから進むべき北の景色を見下ろした。
海の青色が見えることを、心のどこかで期待していた。
だが、僕の目に映ったのは、さらに続く荒涼たる平地と、遠くにそびえ立つ石積みの強固な砦だった。
案内人の情報によれば、あれはタオコイ人の砦だ。彼らは周囲の村々から食糧や家畜をすべてあの石壁の中に抱え込み、僕たちのような侵入者を阻んでいるという。
「……またか」
声が漏れた。
雪山を越え、敵を打ち破り、ようやく一息つけると思った矢先に、今度は食糧を抱え込んだ砦を攻め落とさなければならない。次の配給を得るためには、あの石壁を血で購うしかないのだ。
もう一段の深いうんざり感が、胃の底から這い上がってくる。
逃げ出したいという弱音と、ここで自分が配分を投げ出せば軍が瓦解するという責任感が、僕の内で複雑に絡み合っていた。
「主計殿」
いつの間にか隣に来ていたダフネが体を寄せて来た。
なぜだろうか?その動きが、僕に「まだ終わっていない」という冷酷な事実を教えてくれていたような気がした。




