第95話 村のない七日と倒れる同胞たち
白一色の世界で道を見失うということは、ただ方角が分からなくなるだけではない。
明日には屋根があるかもしれない、火に当たれるかもしれないという、僅かな希望すらも雪に埋もれるということだ。
案内人が夜の闇に消えた翌朝から、軍はひたすら北を目指して雪原を進んだ。前衛のラケダイモン人、ケイリソポスの率いる部隊が膝上まである深い雪を黙々と踏み固めて道を作り、後方からクセノポンが声を張り上げて兵の背中を押す。
だが、その足取りは昨日までとは比べ物にならないほど重かった。兵の顔からは急速に生気が抜け落ち、吐く息だけが白く濃くなっていく。
日数そのものが、目に見えない敵となって僕たちにのしかかっていたのだ。
一日や二日なら、人は気力で寒さと飢えを誤魔化せる。だが、これが「いつ終わるか分からない」となった瞬間、張り詰めていた糸は容易く切れる。
「主計殿。駄獣の足覆いの袋布がもう駄目だ。獣の足が凍りついてる」
荷駄頭であるバウコスが、凍った鼻水と髭を撫でつけながら報告に来た。
彼の指差す先を見ると、雪の冷気から駄獣の蹄を守るために巻きつけていた粗い袋布がすり切れ、雪と泥、それに滲んだ血でガチガチに凍りついていた。これでは一歩踏み出すたびに皮が剥がれる。すでに何頭かの駄獣が、雪に脚を取られて悲鳴のような嘶きを上げていた。
「う~ん……ダメですか…じゃ、足の死んだ獣から潰してください」
僕は外套の襟をきつく引き寄せながら、口の中だけで答えた。
「肉は兵に回します。ですが、その獣が背負っていた薪と天幕は、どうにかして人間が交代で担ぐか、捨てるしかありません」
「捨てるったって、薪を捨てたら夜に凍え死ぬぞ。それに、まあ、雪で壁作れりゃ良いが、場所によっちゃカチカチで天幕がなけりゃ北風を遮る壁も作れねえ」
「分かっています......わかってはいるんですが…」
僕は懐から湿った羊皮紙の帳面を取り出し、かじかんで感覚のない指で小さな炭の棒を握った。
流石にこの寒さでは蝋板は使えなかった。
僕は蝋板のほうが好きだが、止むを得ない。
案内人がいなくなった直後、僕はこれからの行程を「村のない七日間」と仮定して計算を組んだ。その最悪の数字を記した蠟板は、すでに従者のテオドルスを走らせてクセノポンの幕僚たちへ提出している。
軍議にかける余裕もない。今、手元にある干し肉、大麦の袋、そして何より重要な薪の備蓄量を、七で割る。一日分や二日分の配分なら、少々無理をして前借りすることもできた。だが、七日で割った数字は、残酷なほど誤魔化しがきかない。
(この計算通りに配給を削れば、体力のない人間から確実に死ぬ)
帳面に並んだ無機質な数字が、兵たちの顔に見えた。今日倒れる顔。三日後に起き上がれなくなる顔。一日ではなく七日で数えると、人間の顔が急に減るのだ。その冷酷な計算を、僕は嫌でもやめるわけにはいかなかった。
ふいに手が震え、炭の棒を取り落としそうになった時、横からヌッと革の皮袋が差し出された。
「飲んで」
ダフネだった。彼女は何も言わず、自分の懐で温めて凍結を防いでいた水袋を僕の胸に押しつけた。一口飲むと、微かな獣の脂の匂いと温るい水が食道に落ち、痙攣するような震えが少しだけマシになった。
「……ありがとう」
「計算が狂うと、私が困るだけ」
ダフネは短く吐き捨てると、そっぽをむいてそのまま僕の風上に立ち、容赦なく吹きつける北風を背中で遮ってくれた。
「おい、主計殿」
雪を踏みしめる音がして、半隊長のミュロンが歩み寄ってきた。その顔は険しい。
「クセノポン殿の幕僚から通達が下りてきたぜ。あの馬鹿げた配給量……お前の勘定だな」
「はい」
僕は冷たい北風に向かって、声を張り上げずに事実だけを言った。
「無理をしてでも歩いてもらわないと、八日目には何も残りません。薪の配分も変えます。火床は各隊に一つではなく、負傷兵と冷え切った者を優先して輪を作らせてください。足りない分は、歩ける者がお互いの背中を合わせて熱を取るしかない。基本は雪洞か、体を寄せ合うか……それしかないです」
「……正気か。今までの半分以下じゃねえか。こんな粥にもならねえ量で、雪の中を歩けってのか」
「正気です」僕は凍った帳面を指差した。
「ここから先は、敵との戦いではありません。いかにして体温を失わず、いかにして無駄な力を消費しないかの勝負です。
火床の場所は金より重くなる。そこで争いを起こせば、隊列は秩序を維持できません。われわれは自壊します」
ミュロンは僕の目を見た。その双眸は、いつものような若造を値踏みする色ではなく、重い実務を背負う現場の責任者を見る目だった。
将軍が数字を承認しても、それを飢えた兵たちに暴動を起こさせずに飲ませるには、ミュロンのような古参の顔役の力が要る。紙の上の理屈を、雪原の現実に縛り付けるための腕力だ。
「……お前に乗ってやる」
ミュロンは低く言い切った。
「俺も泥を被ってやる。
古参連中には俺が話をつける。
それで兵を黙らせて強行する。
だが、恨まれるぞ......それは覚悟しておけ」
その日の夜営で配給が削られた時、兵たちの間に走ったのは怒りではなく、重い絶望だった。
重装歩兵の百人隊長カレスも、さすがに怒鳴り込んでくる気力すらなかったのか、底の浅い粥の入った鉢を覗き込み、声もなく項垂れていた。
飯が減ったこと以上に、「あと七日は村がない」という計算そのものが、彼らの気力を根元から削ぎ落としてしまったのだ。
塔で習った古い哲学者の言葉に、『忍耐とは、魂が重荷に耐えることである』というものがあった。だが、魂がどれほど立派でも、胃の腑が空っぽなら足は動かない。
哲学は腹を満たしてはくれないのだ。
そこからの行軍は、ただ白と風だけの地獄だった。
一日、また一日と進むにつれ、隊列の秩序は限界まで引き伸ばされていった。
足の生皮の紐が凍りついて食い込み、足裏の感覚を失って歩けなくなる者。雪の照り返しで目をやられ、視界が白く濁って前の兵の外套を掴んで歩く者。
「止まるな! 止まったら死ぬぞ!」
ミュロンの枯れた怒声が、風にかき消されながら響く。
僕は微弱な火魔法を使い、僅かに残った乾いた布や火口を外套の下で炙って着火を助けたが、僕の魔力にも出力には限界がある。頭痛と目の奥の痛みに耐えながら、夜になるたび、火床の周囲の露出した黒い土をめぐって、声にならない小競り合いが起きた。
削る配給、弱る獣、残り薪の勘定、そして擦り切れた袋布。
数字をいじるたびに、現実に倒れる者が増えていく。飢えで立ったまま気を失い、雪に突っ伏す兵も出始めた。僕は彼らの口に無理やり温い汁や砕いた穀物を流し込み、叩き起こして歩かせた。食わせれば歩く。単純だが、誰もその手を回せない時に、主計の仕事は一番重くなる。
そして、彼の使い物にならないはずの火魔法、いや火魔法ですらなく単に少しあっためるだけなのだが、それが凍死寸前のものの命をつなぐのに役に立った。
それでも、日に日に、兵も随伴する者たちも倒れていった。
今では1万人いるだろうか?
もう、他の隊の数字の情報は入ってこなくなっていた。
きっとどこもギリギリなのだろう。
そんな中で彼は毎日帳面を開き、明日燃やすものを決め、明日捨てる荷を選ぶ。それは自分の一部を雪原に削り落としていくような作業だった。
消費される物質も多いのだが、輸送力の減衰もまた大きいのだ。
そして、終わりの見えない雪中行軍が七日目に差し掛かろうとした時のことだ。
前衛の方角から、鈍い歓声のような、あるいはどよめきのような音が風に乗って聞こえてきた。
雪原が途切れ、前方に氷の浮いた大河――ファシス川の雄大な流れが見えたのだ。
「川だ……!凍ってないぞ!」
兵たちの間に、一瞬だけ安堵の空気が広がった。川があるということは、氷を溶かさずに水が得られ、この果てしない雪原の地形が変わるということだ。
だが、その安堵はすぐに凍りついた。
川を越えた先の、険しい下り口の峠の稜線。雪で白く染まったその高みに、黒い染みのような無数の人影が横隊を組んで立ちはだかっていた。
――山地民の軍勢だ。
空腹のまま、あの峠を抜けるのか。
山を一つ越えたくらいで帰れるなら、ここまで苦労はしていない。
僕は湿った帳面を強く握りしめ、もう一段の深いうんざりとともに、冷え切った白い息を吐き出した。




