第94話 逃げた道案内
温かい。臭い。暗い。だが、死なない。
それだけで家というものは十分なのだと、僕は地下家屋の低い天井を見上げて思った。
いや、臭いのは嫌だけど…
アルメニアの酷寒から僕たちを救ったのは、地面に穿たれた井戸のような穴だった。梯子を伝って降りた先には、人と家畜が身を寄せ合う薄暗い空間が広がっている。山羊や羊の生暖かい吐息、ひしめき合う兵たちの体温、それに微か…でもないけど、慣れてしまった糞の臭いと土の匂いが混じり合った濃厚な空気は、雪原で凍りついた僕たちの肺を、ようやく人間らしい温かさで満たしてくれた。
土間の隅には、縁まで並々と注がれた大きな鉢が置かれている。表面には大麦の殻が浮いており、兵たちが中空の葦の茎を挿しては、代わる代わる麦酒を啜っていた。水で割らない地元の麦酒は、腹に落ちると胃の腑を燃やすように熱く、凍傷寸前だった指先にじんわりと血の気を戻してくれた。
「主計殿、控えの写しが終わりました」
薄暗い燈明の光の下で、従者のテオドルスが羊皮紙の束を差し出してきた。僕はそれを受け取り、自分が殴り書きした蠟板の数字と照らし合わせる。
配給札の数、駄獣の残り、薪の備蓄。どれも余裕があるとは言いがたいが、この穴の中にいる限りは凍え死ぬことはない。僕は右手の指先に微弱な火魔法を灯し、その小さな熱でかじかんだ指先を温めながら、書き損じのロウを溶かし修正し、羊皮紙の帳面をめくった。ほんの蝋燭程度の火だが、雪山では、これがないと紙をめくることもできなかった。
「……ご苦労様。少し休むといい」
「はい。主計殿も、少しは横になってください」
テオドルスが不安げな目を向けてくる。僕の顔色も、大概ひどいことになっているのだろう。
だが、この甘やかな安らぎは長くは続かない。ここはあくまで、敵意と雪に閉ざされた異民族の地の真っ只中なのだ。明日の行軍順と配給の算段をつけておかなければ、二万近い……いや…もうかなり減っているから、どちらかといえば一万に近い「移動する都市」はすぐに破綻する。
ふと、横から視界を遮るように影が落ちた。
顔を上げると、ダフネが黙って立っていた。彼女は何も言わず、土の器に入った温い麦の粥を僕の前に差し出した。
「……ありがとう」
僕が受け取ると、彼女は短く顎を引き、そのまま僕の背後――入り口の梯子に近い位置へ腰を下ろした。常に風上、あるいは最も危険な方向に立つのが彼女の癖だ。長い慰めの言葉はないが、その立ち位置だけで、彼女が仕事以上の気を配ってくれているのが分かる。
翌朝。
「主計殿、いつまで寝ぼけてる。頭目が来たぞ」
ミュロンの荒い声が、吹き抜けになった梯子の上から降ってきた。
僕は羊の毛皮から這い出し、足に食い込む冷たい生皮の靴の紐を締め直す。地下の熱気で湿った外套が、梯子を登って地上の外気に触れた瞬間に、再びバリバリと音を立てて強張るのが分かった。
雪の照り返しに目を細めながら地上へ出ると、そこにはプロクセノス隊の新しい将軍であるアテナイ人のクセノポンと、前衛を預かるラケダイモン人のケイリソポスが、一人の男を囲んでいた。
この村の頭目だ。
狐毛の帽子を深く被ったその男は、縄で縛られていなかった。その目は、僕たちへの恐怖というよりは、得体の知れない侵入者への強い警戒と、隠しきれない敵意を宿している。
「無事に次の村まで案内してくれれば、十分な恩賞を出す。家族にも手出しはしない」
クセノポンが落ち着いた声で言い、自らの手で干し肉と少量の葡萄酒を男に差し出した。
「海までの最短の道を知っていると言ったな。我々の目となり、道標となってくれ。これは誓いだ」
人を動かす言葉。説得の技術だ。クセノポンは言葉と名誉、そして実利で相手を絡めとろうとしている。
一方で、ケイリソポスは黙って男の荷物を検分し、鋭い視線を射抜くように向けていた。
「遅れるなよ。雪に足を取られて立ち止まれば、容赦なく置いていく」
ケイリソポスの関心は、いかに早くこの雪原を突破し、兵の足を死なせないかに尽きる。彼が案内人を縛らなかったのは、情けからではない。単に先頭を歩く男の速度を落としたくなかったからだろう。 僕はその様子を少し離れた場所から見ながら、懐から湿った羊皮紙の帳面を取り出した。
「……案内人の待遇、および監視の責任はどなたが持つんですか」
僕が問うと、ケイリソポスが短く答えた。
「俺の隊で預かる。逃がせば、この村の連中を全員、王の軍勢へ引き渡すと言ってある」
冷徹な判断だ。だが、この状況ではそれしかないのだろう。
ただ、二人の将軍のやり方は見事に割れていた。クセノポンは言葉と恩賞で懐柔しようとし、ケイリソポスは暴力と圧力で急かそうとしている。どちらの理屈も分かるが、対応の不統一は必ずどこかに歪みを生む。
(人は道そのものだが、人は道標ほど素直ではない、感情を無視しては…思わぬ仕返しが来る)
塔で聞いた古い言葉が、嫌な手応えとともに脳裏をよぎった。虐げれば隙を見て逃げるし、甘く見ればこちらを侮って逃げる。案内人という不安定な資源を、僕たちは今、軍全体の命綱にしようとしているのだ。
「主計殿、なにか思いつめた顔をしている」
背後からダフネの短い声がした。
「……ありがとう。道案内が逃げた時、僕たちの計算が何日分狂うかを考えていました」
「今から最悪を数えてどうするの。さっさと歩く」
ダフネは呆れたように言った。
「ま、それがレオンの仕事か…」
と呟いた彼女が、すっと僕の風上に立ち、北風を背中で遮ってくれた。
呆れつつ、仕方ないという感じだった。
危機管理という考えは、なかなか一般受けしないようだ。
まあ、考えたらそれが実現するなんていう迷信もあるみたいだし。
しかたないか。
号令が響き、行軍が始まった。
頭目を先頭に、軍の巨大な列が再び雪原へと這い出す。
一日、二日。頭目の指し示す道は確かに雪が浅く、軍の行軍速度を維持させてくれた。
「ほら、さっさとソリを回せ! ここで止まれば後続がうごけなくなるぞ!」
村で徴発した、ソリつきの荷車?のようなものを引き回す。
古参の荷駄頭であるバウコスが、凍りついた泥と雪に足を取られる駄獣の尻を叩きながら怒鳴ってい
る。彼が駄獣の足に巻いた古い袋布のおかげで、蹄の凍傷は幾分か防げていたが、それでも荷車の流れはすぐに滞る。
雪山に入って、所々で、ソリつきの荷車を徴発してるのだが、随分勝手が違う。
滑り出すと止まらないのだ…
幾つか、荷ごと滑落したのを見た。
その荷台には、歩けなくなった兵も乗っていた。
いっときは道を得たことで、兵たちの間に微かな油断が生まれていた。
「おい、主計! 俺たちの荷が後ろに回されているのはどういうわけだ!」
怒鳴り込んできたのは、重装歩兵の百人隊長カレスだった。彼は外套の下に隠した、立派な青銅の胸当てを鳴らしながら、僕に詰め寄ってくる。
「俺たち重装歩兵が前に出なければ、敵が来た時に誰が戦うんだ。荷駄の順を前にしろ」
花形の兵科であるという自負が、彼の態度を傲慢にしている。だが、僕は雪原の轍から目を離さずに言い返した。
「カレス殿、その重い装備を積んだ車列を前に出せば、雪に沈んで隊列全体が止まります。ここで速度を落とせば、後衛の軽装歩兵たちが凍えて戦列から消える。そうすれば、側面を守る者がいなくなる」
「理屈をこねるな、帳簿役が」
「雪が踏み固められてないうちは、ソリつきのしかダメです。
立ち往生した荷車は、どうにもならないですよ?」僕はカレスの目を真っ直ぐに見据えた。
「明日の朝、凍え死んだ兵の数を数えたくないのなら、僕の決めた順で通してください」
カレスは忌々しげに舌打ちをして去っていった。くだらないいざこざや利害衝突を帳面と現実の両面から捌くのも、僕の仕事だ。
フイロンがいなくなってから随分こういうことにも慣れた。
「よくあの大男を言い負かしたな、坊ちゃん」
近くで様子を見ていたミュロンが、鼻で笑った。
「いや、理屈が通じただけです。それに、隊列が瓦解すれば、結果的に全員が路頭に迷いますから」
「まあな。だが、気をつけろよ。兵は羊皮紙を食わねえ。腹が減れば、理屈より先に力ずくで奪いに来る連中だ」そんな小さな秩序の維持も、三日目の夕暮れには脆くも崩れ去った。
暗がりの雪原で、前衛の方から突然の怒号が響いた。
荷駄の横で報告を受けた僕は、思わず息を呑んだ。
頭目が案内した先の村が、もぬけの殻だったのだ。蓄えられているはずの食糧も、暖を取るための薪も、一切が持ち去られた後だった。
それに苛立ったケイリソポスが、「罠にかけたな」と頭目を杖で殴りつけたという。クセノポンは「虐げれば口を閉ざす」とそれを非難し、将軍同士の言い争いが起きた。
「……殴ったんですか」
僕は帳面を持つ指を止め、内心でうめきながら凍りつくような空を仰いだ。
村が空だということは、充分な補給は出来ないということだ。
精々、器材…荷車とかソリとか…あとは、焚き付けにするための地上の家とか、小屋くらいか…
まぁ、全部は持って出れないだろうから、探せば幾ばくかは隠しているだろうけど…種籾とか…
兵たちの間に、急速に冷たい不安が伝播していくのが分かる。そして、その嫌な予感は、翌朝の出立前に最悪の形で現実となった。
「おい、主計殿」
ミュロンが白く濁った息を吐きながら、雪を蹴立てて歩み寄ってきた。その顔は険しく、手には何かを握りしめている。
「案内人が消えた。道は無え」
彼が足元に投げ捨てたのは、案内人を繋いでおくはずだった細い縄の切れ端だった。
「消えた? ケイリソポス殿の隊が見張りを置いていたはずでしょう」
「夜半、将軍たちが言い争った後だ。見張りが目を離したわずか一刻の間に、暗がりに紛れたらしい」
ミュロンは忌々しげに地面に唾を吐いた。
「足跡は、風ですぐに消えちまった。逃げたんだよ、あの野郎」
将軍同士のやり方のズレ。その隙を、あの男は見逃さなかったのだ。
僕の手元にある湿った帳面には、過酷な数字が突きつけられていた。案内人を失い、次の補給拠点も不明。ここから先は、地図も道標もない区間へ突入することを意味している。
「ミュロン」
僕は、自分の口から出たひどく乾いた声に驚いた。
「ここから先、村の気配はありましたか」
「無え。見渡す限り、雪と風だけだ」
「……」
僕の頭の中で、絶望的な勘定が急速に組み上がり始めていた。
村がない。それはつまり、火も、食糧も、寒さをしのぐ屋根もないということだ。薪がなければ雪を溶かして水を煮沸することもできず、凍った干し肉をそのまま齧るしかない。負傷兵や足をやられた者から確実に脱落していく。
この雪原で、次にいつ食える保証があるのか。
(つまり、僕がこれからの日割りを、最悪の仮定で組むしかないということだ)
吹きつける北風が、僕の体温を急激に奪っていく。
僕は湿った帳面を開き、震える指で炭を握った。
雪と飢えの連なりが、巨大な口を開けて僕たちを待ち構えているのが見えた。
「ミュロン、そこらの地上の小屋は全部持っていきましょう、ソリにして、焚き付けにして運びましょう。
あと、どうせ野菜とか種籾とかを埋めて隠してるはずです。
目印になりそうな木とかの下も掘り返して、一切合切持って行きましょう」
「主計殿、おめぇカレスみてえなこと言い出したな。
ま、でも、そうだな、洗いざらいさらうか…」
僕らは、傭兵団から山賊に転職をした。




