補章12 葦で吸う酒
奇妙な地下の家屋に転がり込んで数刻。
麦酒で腹を満たした兵たちは、獣の臭いが充満する低い天井の下で、泥だらけの床に寝転がって泥のように眠っていた。
温かい場所ほど、出るときの落差が人を殺す。今日ここでいくら温まっても、明日またあの白い地獄を歩かなければならないことに変わりはない。気を抜けば、明日の朝、半分は立ち上がれなくなる。
そんな皮肉な理屈を内心でこね回しながら、レオンは火のそばの黒い土の上に座り込んでいた。
休む前に、やらなければならないことがある。
革袋から帳面を取り出す。雪と汗で湿り、炭で書いた数字がわずかに滲んでいる。ここでもし配給の記録が消えれば、明日の朝、誰にどれだけの穀物を渡すかで殺し合いが起きかねない。
レオンは湿った羊皮紙と、翌朝のための火口、そして傷口用の薬草を並べた。
短く息を吐き、両手でそれらを覆うようにかざす。
微弱な乾燥の魔法。ほんのわずかに湿気を払う程度の、戦場では何の役にも立たない力だ。だが、この極寒の行軍では、火口の乾き具合が文字通り部隊の生死を分ける。
数分ほど集中しただけで、指先がピリピリと痺れ、目の奥に鈍い痛みが走った。
「……こんなものか」
レオンは目をこすり、小さく息をついた。火口はなんとか明日の着火に使える程度には乾いた。濡れた布も、明朝までには凍らずに済むだろう。
「明日もここにいようぜ。どうせ外は吹雪だ」
麦酒で腹を満たした兵の一人が、泥だらけの床に寝転がって笑っていた。
レオンは冷めた目でそれを見る。温かい場所ほど、出るときの落差が人を殺すのだ。今日ここでいくら温まっても、明日またあの白い地獄を歩かなければならないことに変わりはない。
気を抜けば、明日の朝、半分は立ち上がれなくなる。
そんな皮肉な理屈を内心でこね回していると、目の前にごとりと素焼きの鉢が置かれた。
見上げると、ダフネが立っていた。
彼女は何も言わず、鉢の横に立てかけられた葦の茎をあごでしゃくった。飲め、ということらしい。
レオンが片手で鉢を受け取ると、ダフネはレオンの足元に広げてあった火口袋を、誰かに踏まれないよう火のそばの安全な位置へ足でずらした。相変わらず、言葉より先に手や足が出る。
ダフネはそのまま、レオンの隣の壁際にどさりと座り込んだ。
膝を立て、両腕を回して壁に頭をもたせかける。いつもなら周囲に鋭い目を光らせている彼女が、珍しくそのまま目を閉じた。
疲れが限界にきているのだ。連日の雪中行軍に加え、常にレオンの周囲を警戒し、倒れかけた兵がいれば無言で肩を貸していた。護衛役の彼女もまた、削りに削られている。
声をかけるべきか、少しでも寝かせておくべきか。レオンが葦の茎を口にくわえたまま迷っていると、閉じた瞼のまま、ダフネがぽつりと言った。
「うるさい」
「……僕はまだ一言も発していませんが」
「顔がものいいたげにこつち見てる」
相変わらずの辛口だ。レオンはあきらめて、葦から温い麦酒を吸い上げた。甘酸っぱさと土のような匂いが混ざった、妙な味だった。
しばらくして。
こてん、と。
軽い衝撃とともに、レオンの左肩に重みが乗った。
ダフネの頭が、船を漕ぐように傾き、そのままレオンの肩に寄りかかっていた。規則正しい、少し浅い呼吸の音が聞こえる。どうやら本当に意識を手放したらしい。
レオンは身を硬直させた。
動けば起こしてしまう。だが、動かなければ帳面の整理ができないし、左腕が徐々にしびれてくる。なんとも不合理な拘束だ。だいたい、護衛対象を枕にする護衛がどこにいる。
そんな理屈で頭を埋め尽くそうとしたが、ふと視界に入った彼女の手の甲を見て、レオンは口を噤んだ。
冷え切って赤く腫れ、いくつもの小さなあかぎれが割れている。自分を守るために剣の柄を握り続けた手だ。
レオンは不器用な手つきで、自分の乾きかけた外套の端を引っ張り、ダフネの肩にかけた。
「火口を抱いて寝るなよ、坊主。燃えるぞ」
背後から、低いだみ声が降ってきた。
振り返ると、ミュロンが干し肉をかじりながら見下ろしていた。彼はレオンの肩で眠るダフネを一瞥したが、表情は微塵も変えなかった。
「寝ろ。今はそれも仕事だ」
「……ええ。わかっています」
ミュロンはそれだけ言うと、いびきをかき始めた部下たちの列へ戻り、無造作にその一人を蹴飛ばして寝る位置を直させていた。荒い、実に荒っぽいが、確実に場を締めあげる男だ。
乾いた火口と薬草、帳面の数字は明日の朝まで守れる。この温かさで、何人かの兵の命も繋いだ。
だが、レオンは目を閉じても一向に眠りに落ちることができなかった。
温まりすぎていびきをかく兵たちを見ると、明日の落差に耐えられないのではないかと、嫌な勘定が頭を巡るのだ。
地下の家は温かく、臭く、暗く、そして狭い。
レオンは左肩の重みを感じながら、乾いた火口と帳面をそっと引き寄せた。この温かさで、明日の朝まで何人かの命を繋ぐことができる。
今はそれだけで、十分すぎるほどの成果だった。




