第93話 地下の家
雪の中で倒れかけた兵たちを怒鳴りつけ、無理やり引きずり起こしながらの過酷な行軍の果てだった。
北風が容赦なく体温を奪い、凍った靴の革紐が足裏の感覚を消し飛ばしていく。あと半刻も歩けば、また何人かが雪の上に倒れて二度と立ち上がれなくなる。そんな限界の綱渡りの中、ようやく人の住むところにたどり着いた。
「村に着いたぞ」
前衛から、喉の千切れそうな報せが列の後方へ回ってきた。その声にすがりつくようにして先頭集団の元へたどり着いたというのに、レオンの目には家などまったく見えなかった。
見渡す限り続く雪野原の起伏と、まばらな低い柵、それに地面にぽっかりと開いた黒い穴があるだけだ。屋根も壁も、普通の村にあるはずの家らしい影がどこにもない。
「主計殿。どこが村なんですか」
テオドルスが、凍えきったかすれ声で聞いた。
「あれだろ」
ミュロンが顎で示した先には、地面に開いた丸い口があった。井戸にしては大きすぎる。そしてその穴の中から、もやもやと白い湯気のようなものが上がっている。
湯気。たったそれだけの光景が、限界を迎えていた兵たちの足に急激な熱をもたらした。死にかけの人間は、温かいものの気配を嗅ぎつけると理屈より先に身体が引き寄せられてしまう。
「走るな! 列を崩すな!」
前衛のケイリソポスから鋭い声が飛ぶが、兵たちの背中はもう半分だけ走り出していた。
一番大きな穴の近くで、現地の者たちが怯えたように固まっていた。女、老人、子ども。若い男の姿は少ない。クセノポンの通訳が前へ出て、ペルシア語で何かを叫ぶ。相手の一人、白い髭の男が短く答えた。
村の頭目らしい。レオンはそれを横目で見ながら、穴の縁へ近づいて下を覗き込んだ。穴の奥へ向かって、太い木を組んだ梯子が掛けられている。人間の入口はこれだが、少し離れたところには、獣を中へ入れるためのなだらかな斜面の通り道が別に掘られていた。
地面の下に、家があるのだ。
「おい主計殿。理屈はいいから先に中を見ろ」
ミュロンに背中を押され、レオンはかじかむ手で梯子に手をかけた。指がまだうまく曲がらない。するとダフネが先に身軽に降りていき、下からレオンを見上げて短く言った。
「足元。段差がある」
その一言で、梯子の下の地面が少し窪んでいることが分かった。こういうところは本当に頼りになる。
降り立った地下の部屋は、想像していたよりもずっと広かった。
そして、底へ着いた瞬間、もわっとした生ぬるい空気が顔を打った。
「うわっ、くっせえ!」
後から降りてきた兵が顔をしかめて鼻を覆う。確かに、まともな神経なら一刻もいられないような強烈な臭気だった。
羊の脂の匂い、牛の糞尿、何日も洗っていないような獣の毛皮、古びて酸っぱくなった乳、湿った黒い土。それらが低い天井の下に充満し、古い煙の匂いと混ざり合って鼻の奥を激しく突いてくる。
天井は低く、背の高い重装歩兵なら頭をぶつけてしまうだろう。土の壁は、崩落を防ぐためにところどころ太い丸太の梁で補強されている。
部屋の奥には木組みの柵があり、羊と山羊が身を寄せ合って見知らぬ侵入者を見つめている。別の仕切りの中では、牛が低い鼻を鳴らした。臭いの原因は間違いなくこれだ。
だが、文句を言った兵も、すぐに口を噤んだ。
強烈な臭いよりも先に、圧倒的な「温かさ」が体を包み込んだからだ。
家畜たちの吐息が白くならないことに、レオンは少し遅れて気がついた。ここでは息が凍らない。地上の白い地獄が嘘のようだ。
「変な家」
ダフネが周囲を見回して、率直な感想をこぼした。
「いや、これはひどく理にかなっているんです」
レオンは凍りついた手足をさすりながら答えた。
「地上に壁や屋根を建てるより、土の中に掘った方が北風を完全に避けられます。土そのものが分厚い壁になる。それに獣を人間の居住区に入れれば、彼らの体温と吐く息が、そのままこの広い部屋を温める熱源になりますから」
家政の視点で見れば、完璧な生存の形だ。
壁際を見上げると、梁の隙間から大量の干し野菜や紐でくくられた干し肉が吊るされている。床には粗く砕いた大麦の袋がいくつも積まれていた。中央の塔のエリートたちが図面で見れば、きっと『未開』だの『辺境』だのと見下すだろう。だが、見栄えの良い石造りの神殿で凍死するよりはるかに正しい。
温かく、臭く、暗い。だが、死なない。家としてはそれで十分だ。
「おい、これを見ろ。酒だ!」
部屋の中央に置かれた巨大な素焼きの鉢を囲み、兵たちが歓声を上げた。
鉢の縁ぎりぎりまでなみなみと注がれた液体には、麦の殻のようなものが大量に浮いている。鉢の縁には、節を抜いた何本もの長い葦の茎が立てかけられていた。
頭目から話を聞いた通訳が、興奮気味に伝えてくる。
「大麦の酒だそうです! そのまま飲むと粒が口に入るので、この葦を挿して底の方から吸うんだと」
「なんだこれ、どうやって飲むんだ? どけ、俺からだ」
若い兵が葦をくわえ、思い切り吸い込んだ。途端にむせ返り、麦酒を噴き出す。
「ばかっ、殻まで吸い込んでどうする。ゆっくり吸うんだよ」
別の兵が要領よく葦をくわえ直す。すでに頬が赤くなり始めている。
「まだ酒は配給していません」
レオンが鋭く言うと、若い兵はしぶしぶ葦を口から離した。
「ケチケチすんなよ。少しだけだ」
「その少しで、身体が急に温まって寝入ってしまいます」
「寝るために飲むんだろ。文句あるか」
「足の悪い者を奥の温かい場所へ寝かせ、濡れた外套を火床から離して吊るすのが先です。それから靴の革紐を緩めてください」
何人かが、心底嫌そうに足元を見た。
「うるせーな、好きにさせろよ」
「ダメです。面倒でも、足を緩めて下さい。ここで緩めないなら、雪の中で結び方を教えた意味がありません」
温まったとたん、これだ。身体の機能が生き返った証拠でもあるが、気が緩んで列の秩序が崩れかけている。だから余計に腹立たしい。
レオンは鉢の前に木でできた配給札を置き、ダフネに目配せして鉢を守らせた。
「おい! 主計殿の言う通りだ」
ミュロンが腹の底から怒鳴った。
「足の悪い者から先に降ろせ。濡れた外套は入口で絞れ。酒へ先に手を出した奴は、雪の中へ放り出すぞ!」
最後の一言が、何よりも効いた。
兵たちはしぶしぶと自身の革紐へ手を伸ばす。ダフネは何も言わず、白濁した目の兵の前にしゃがみ込むと、無言で彼らの紐を緩めて回った。命令ではない。ただ、やる。その有無を言わさぬ行動を見て、他の兵も少しだけ早く手を動かした。
夜が更け、地下の家は各隊の兵でぎっしりといっぱいになった。
奥の家畜は鼻を鳴らし、火床からは絶えず煙が上がり、大麦酒の鉢には葦の管が何本も並んで兵たちが回し飲みをしている。天井は低く、空気はひどく重い。
レオンは自分の蠟板と尖筆を取り出し、火のそばで膝に置いた。
「テオドルス。皆が寝静まる前に、ここにある麦袋と干し肉の在庫数を取っておきます」
「はい、主計殿。でも、明日の朝でも……」
「誰かが腹いっぱいに食えば、明日の誰かの分が消えますから」
レオンの答えに、テオドルスは慌てて自分の蠟板を取り出した。
地下の家は温かい。だが、温かいからといって人が善良になるわけではない。寒さから解放された兵たちは、夜中にこっそり備蓄へ手を伸ばしかねない。ここで配給の帳面が死ねば、明日の朝には誰に何を配るかで殺し合いが起きる。
計算を始めようとして、レオンはふと頭目の横顔を見た。
クセノポンやケイリソポスたちが彼を囲み、明日の道案内として使えるかを通訳越しに尋ねている。頭目は「この先の村までなら案内できる」と答えていた。
だが、男は火床の温かさには目を向けず、梯子の上の、外へと続く暗い穴ばかりを見上げていた。
外へ出る道を、もう見ている。案内人は、隙あらば逃げる気だ。
レオンは小さくため息をつき、蠟板へ最初の数字を刻んだ。
温かい家に入って命が繋がっても、明日の道案内と食糧の勘定という主計の仕事は、一つも減らないらしい。




