第92話 目に映るものすべてが白くなる
最初に目を押さえた兵は、決して泣いているわけではなかった。とめどなく涙は溢れているが、悲哀から来るものではない。一面の雪の白さに焼かれた目が勝手に水を出し、それがまぶたの縁で凍りかけているのだ。
「前が白い。全部、白いんだ……」
兵はうめき声を漏らし、そのまま雪の上へ膝をつきかけた。
すかさず仲間ががその肩を力強く掴み、無理やり立たせる。
そのたいの分隊長だろうか?古兵の風格を漂わせたものが、声をかける。
「座るな」
「目が!目が!俺の目が!」
「うるさい、座るな」
短く冷たい響きだが…たぶん正しい。ここで座り込めば、そのまま雪に体温を吸い尽くされる。目が見えなくなる恐怖よりも、足を止めることの方がはるかに早く死に直結する。
そして、狂乱に陥りかけてる人間に怒鳴ってはいけないのだろう。
淡々と、ドスの効いた声で…
たぶんこれが正解なのだ。
不安や動揺…それから焦り…そして狂乱…危機に瀕した時に死ぬ人間は、だいたいこういう順を踏むのだろう…
喚きながら突撃したり…敵の前で座り込んだり…
雪山云々は置いても…彼ら古参の人間は経験で知っているのだ。
少し、いざこざはあったが、その兵はなんとか落ち着いた。
刺激を与えないように、声をかけながら近づいたレオンは立ちすくむ兵の顔を覗き込んだ。まぶたは赤く腫れ上がり、目も充血していた。顔を上げれば雪面からの強烈な照り返しをまともに受け、かといって下を向けば前の者の足跡を見失ってしまうという、逃げ場のない状況だった。
塔で読んだ北方の旅の記録に、似たような話があった気がする。
『白い地面は、太陽を二つにする』。
書物の端に書き留められていた詩的な言い回しだが、今なら痛いほど分かる。空の太陽と、足元から跳ね返る太陽。その二つに目を挟まれれば、人間の目などひとたまりもない。なるほど賢い言葉だ。
ひとつ解決の手がかりは掴んだが、問題は今、目の前の兵が視力を失いかけているという現実の方だった。
たしか、目隠しを作るんだったかな?
レオンは栄養が不足して、疲労も蓄積している中、薄らぼんやりしたあたまから記憶を捻り出した。
「黒い布を集めてください」
レオンは周囲を見回して言った。
「黒い布、ですか?」
記録板を抱えたテオドルスが、寒さに震えながら聞き返す。
「煤で汚れた布でも、焦げた外套の端でも構いません。それを目の上へ細く巻くんです。全部を覆うのではなく、下だけが少し見えるように」
「そんなもので、目が治るんですか」
「目は治りません。ですが、目に入る白を減らすことで改善はできます」
断言してはみたものの、確信などなかった。だが何もしないよりはましだ。まし、ばかりだ。最近の自分の仕事は、その「まし」な選択を拾い集めることだけでできている。
ミュロンが荷車の脇から、前方の列へ向かって太い声を張った。
「おい、お前ら! 黒い布を出せ。煤のついた汚いやつだ。きれいな布じゃねえぞ。主計殿がこれから目隠し屋を始めるそうだ」
「目隠しではありません。雪の反射を防ぐんです」
「細けえな。やることは同じだろ」
「兜の庇が長い人は、そこに垂らす感じでも良いかもしれません」
「このさみーのに兜なんぞ被ってるやつ居んのか?
いくら重装歩兵が頭空っぽでも、さすがにいねぇんじゃねえのか?」
相変わらず言い方は雑だ。
でもきっと、それが良いのだろう。
兵たちはニヤっと笑い、素直に動くるだす。
ここに居るのは軽装歩兵たち、みな布の帽子か革の兜だ。
寒さには強い。
だが、重装歩兵は青銅の兜。豊かさの象徴だが、雪山にはそぐわない。いくら裏が革張りでも…
焦げた布、鍋底を拭いた布、煤で黒くなった使い古しの包帯。普段ならただの汚れとして捨てるようなものが、ここでは急に命を繋ぐ道具になる。レオンは集まった布を細く裂かせ、目の腫れた兵たちの顔へ巻かせていった。
「おい主計殿、こんなもん巻いたら余計見えねえぞ」
「布は目の位置で巻いてください。下を少しだけ開けて、前の者の足跡だけを追うんです。横の雪を見れば目が焼かれます」
「主計殿、顔の色が死んでる」
横からダフネが短く言い、無言で自分の外套の端をレオンの首元へ押し込もうとした。
「……大丈夫です。それより今は、布で目を覆うのを優先してください。顔が冷たくても死にはしませんが、目が見えなくなれば今日明日歩けなくなります。
待ってるのは死です」
自分で言っておきながら、なんとも嫌な理屈だと思った。しかし兵たちは文句を言いながらも布を巻き、目を細めて前の足跡を追い始める。歩みは遅くなったが、膝から崩れ落ちる者は減った。
だが、ほっと安堵する間もなくすぐ隣で別の問題が起きた。
「自分の足が、ねえみたいだ」
列の中ほどで、若い兵が虚ろな声を出した。
言葉の意味が一瞬分からず、レオンはその兵の足元へ視線を落とした。生皮で作られた靴が雪の水分と寒さで板のように硬くなり、結び目の革紐が肉に食い込んでいる。歩けてはいる。だが本人の感覚の中では、すでに足裏から下の肉が消え失せていたのだ。
目が見えなくなるのも恐ろしいが、もっと怖いのは、確かに踏みしめているはずの地面の感覚が消えることだ。
「止まって。靴の紐を緩めます」
「さっき、座るな止まるなって言っただろ」
「いまは少しだけとまつてくたまさい。凍傷も怖いですが鬱血も怖いです。
このままだと足を失って、あなたはもうずっと止まったままになります」
反論しようとした兵が黙り込んだ。レオンは雪の上に膝をつき、兵の靴に手を伸ばす。だが、自分の指先も寒さで上手く動かない。凍りついた革紐は石のように硬く、爪を立ててもまったくほどけなかった。
「貸して」
ダフネが隣へしゃがみ込み、レオンの手を退けた。彼女は鞘から抜いた短剣の背を巧みに使い、結び目の隙間を押し広げて少しずつ紐を緩めていく。決して刃は立てない。紐を切ってしまえば、靴が脱げて結局は歩けなくなるからだ。あくまで緩めるだけにとどめる。
窮屈な皮の中から足が出ると、指先は赤黒く腫れ上がっていた。ところどころ、血の気が引いて白く変色している部分もある。
兵が自分の足を見て、絶望に顔を歪めた。
「指先、動かせますか」
「分からねえ。感覚がないんだ」
「足を見ないで動かしてください。見た目に引っ張られてはいけません」
レオンの言葉に兵は目を閉じ、歯を食いしばって足指に力を込めた。ほんの少しだけ、痙攣するように指が動いた。
「歩けます。紐はゆるく結び直してください。そして、夜営に入ったら必ず紐をほどくんです」
「夜営に着くころには疲れ切ってる。そんなことまで覚えてられるかよ」
「覚えていなければ、明日の朝には凍った靴ごと、その足を切り落とすことになります」
脅しではない。記録や古参兵の知識から導き出された、冷酷な事実だった。
ダフネが立ち上がり、何も言わずに次の足を引きずっている兵の元へ向かった。命令されたわけではない。自ら雪にしゃがみ込み、再び短剣の背で凍った革紐を緩め始める。
「ダフネ」
「見て分かった」
レオンの呼びかけに対する返事は、それだけだった。理屈ではなく、見て分かったから動く。いかにも彼女らしい。その行動の方がずっと心強かった。
レオンは周囲の列へ向けて、通るように声を張った。
「皆、聞いてください。夜営に入ったら、寝る前に必ず靴の革紐を緩めるんです。歩き続けて足は腫れています。きつく締めたまま眠れば、血が止まり、朝には靴が凍りついて二度と外れなくなります」
「着いたら薪を集めて火を熾さなきゃならねえんだ。寝る前にそんな紐をいじってる余裕があるかよ」
「余裕の話ではありません。生き残るための手順です」
自分の声が、思わず強くなった。腹が立っていたのだ。寒さにではない。雪にでもない。何度口を酸っぱくして言っても、己の身体が壊れかけてからでないと現実を信じようとしない兵たちにだ。いや、偉そうなことを言っている自分自身も、実際に凍りつく足を見てから慌てて対処しているに過ぎない。だから余計に腹が立つ。
「黒布は絶対に外さないでください。夜営に入ったら、まず足の革紐を緩める。凍ったまま締め付ければ足先が死にます。……それと、火床のそばで休む時は必ず二人一組になってください。片方が数を数え、眠りそうになったら叩き起こすんです。いいですね。
寝るのは、雪洞の中だけです」
震える手で、テオドルスが蠟板へ尖筆を走らせる。
「目、紐、休む時は二人。……その三つですね」
「はい。三つだけです。これ以上増やすのは酷でしょうね。今の状態では誰も覚えません」
疲労の極地では、手順は少ないほどよい。命を守るための知識ほど、こうした寒い場所では短く簡潔でなければ役には立たないのだ。
その日の後半、隊列の中には黒布を巻いた兵が目に見えて増えた。
煤の帯を顔に巻いた兵たちの姿は、敗走する傭兵軍というよりも、焼け跡から這い出してきた盗賊の群れのように見える。見た目は最悪だったが、痛みに目を細める者は確実に減った。前の足跡を追って、なんとか歩調を保てる者が増えたのだ。
だが、足の方は目よりもずっと悪かった。遅れがちな兵の靴を脱がせるたび、血の気を失った白い指、凍傷寸前の指、凍傷はしてないが鬱血した指、赤黒く腫れ上がった足が次々と現れる。まだ指が動く者は立たせて歩かせ、動かない者は無理にでも火のある場所まで運ばせた。火が遠い場合は、レオンが手に魔法で熱を集めながら足をこすって血を巡らせ、持っている限りの乾いた布で包み直すしかなかった。
「おい主計殿。こいつはどうだ」
ミュロンが、一人の男の腕を引いて連れてきた。
男は年かさの荷駄引きだった。顔は酷く平静だった。いや、平静すぎた。雪の上に投げ出された自分の無惨な足を見ても、ほとんど表情を変えていない。
レオンはしゃがみ込み、その足指に触れた。硬く、ひどく冷たく、まるで石のようだった。押しても引いても動かない。
「感覚がないのは、いつからです」
「朝から、少し……」
少し、ではない。足指の先は完全に白く抜け、爪の周りの肉が死んだように灰色に変色していた。
「歩けますか」
「歩けるとも」
荷駄引きは虚勢を張って立ち上がろうとした。だが、足裏に力が入るはずもなく、膝からぐしゃりと雪に崩れ落ちた。
レオンは言葉を失った。救えない、とは口にしたくなかった。だが、ここまで冷え切った足指の肉は、もう元には戻らないかもしれない。たとえここで長く火に当てて温めたとしても、明日の過酷な行軍に耐えられる足にはならないだろう。
見上げると、ミュロンが厳しい目でレオンを見下ろしていた。現場の責任はお前に取らせる、『言え』という目だった。まったく、嫌な役回りばかりが回ってくる。
「……担ぎ手をつけます。歩けても長くは保ちません。前の村で徴発したソリ荷にのせます」
「場所なんてねえだろ、なんか捨てんのか?
捨てる荷はどれだ」
「鍋ですかねぇ…」
その言葉に、火の準備をしていた近くの兵が弾かれたように顔を上げた。
「大鍋を捨てるのかよ。冗談だろ」
「この人を運ぶのなら、重いものを下ろすしかありません」
「鍋がなきゃ、雪を溶かして粥を煮ることもできねえぞ!」
「……では、代わりにこの人をここに置いていきますか」
言い放った瞬間、自分の声の冷酷さに吐き気がした。
抗議した兵たちは押し黙った。誰も、『その男を雪に捨てろ』とは口に出して言えない。言えない代わりに、彼らは無言で大鍋を惜しむ顔をした。彼らの怒りも、飢えへの恐怖も痛いほど分かる。分かるからこそ、決断を押し付けられることに腹が立つ。
結局、使い込まれた古い青銅鍋が一つ、雪原の真ん中へ無造作に捨てられた。動けなくなった荷駄引きは空いた荷袋の上へ乗せられ、両側から二人の兵が支えることになった。
人は残し、鍋は失った。その代償を払ってもなお、あの男の足はたぶんもとには戻らないだろうという冷徹な計算が、レオンの頭から離れなかった。
そして遠からず、あの男は死ぬだろうとも思った…
夕暮れが近づくころ、吹き荒れていた北風がようやく少しだけ弱まった。弱まったといっても、決して気温が上がったわけではない。それでも、顔を切り刻むような風の刃が止んだことで、兵たちは安堵に肩を落とした。
歩きながら、レオンは黒布を巻いた兵たちの数を数え、凍傷の兆候が出た者の印を蠟板に細かく刻みつけていく。付けられた印の数が多すぎる。これでは配給の帳簿というより、まるで死にぞこないの病名一覧だ。
「主計殿」
背後を歩くテオドルスが、震える声で小さく言った。
「この雪と寒さは……明日も続きますか」
「続きます」
残酷なほどすぐに答えが出た。北の山脈を越えない限り、春は来ない。
「でも、我々はやり方を学び…生き残る方法が手元に残りました。目隠しをする、煤を目の周りに塗る。紐を緩める、立ち止まらない。これを知っているだけで、明日は今日より少しだけ早く対処ができます」
それを慰めと言ってよいのか、レオン自身にも分からなかった。テオドルスは力なく頷いた。今はもう、そうやって頷くしかないのだ。
日が落ち切り、ようやく風をしのげる夜営のくぼ地へ入りかけたころ。前を歩いていた兵の一人が、唐突に雪の上へずるりと座り込んだ。
隣の者が声をかけても返事がなく、ただ静かに眠っているように見えた。すぐさまダフネが駆け寄り、男の肩を強く揺する。
男はうっすらと目を開けた。だが、その目は雪に焼かれて白く濁ったまま、ダフネの顔すら捉えていなかった。
「立て。ここで寝るな」
ダフネが鋭く言う。
男は、ひび割れた口を微かに動かした。
「少しだけ……休むんだ……」
それは、ようやく温かい火床を見つけて安堵した者の声ではなかった。
白く冷たい雪の中に、ただ静かに残ろうとする者の声だった。
彼は、そのまま動かなくなった。




