第91話 食べないと動けない
レオンが確認のために近寄った。
動かなかった男は、かすかに息をしていた。
横合いからミュロンが容赦なく頬を叩くとまぶたが震えたため、死んではいないようだが、自力で起き上がる気配はない。火のそばにいたはずなのに唇はひどく乾き、顔は灰をかぶったように白濁していた。
「凍えたのか」
誰かが不安げに呟いたが、レオンは男の冷たい手を取って首を振った。指先は冷え切っているが、凍えて硬直した感覚とは違う。手首の内側へ指を当てると、弱いながらも確かな脈が触れた。
昨夜は足ばかりを見ていた。足の色、火の場所、布の乾き具合。凍傷寸前の者を明日の行軍へ戻すことばかりに気を取られ、一番肝心な腹の方を見落としていたのだ。何が主計だ、間抜けめ、と内心で毒づく。
「この男が最後に食べたのはいつですか」
レオンが近くの兵に問うと、相手は首をすくめた。
「知らねえよ。昨日の昼じゃねえか」
「配給は受けていないんですか」
「あいつ、昨日の夜に火の場所を確保しようと干し肉を出してた奴だ。結局交換し損ねて、そのまま袋に持ってるはずだが」
男の背嚢を探ると、布に包まれたままの固い干し肉が転がり出た。
食べ物を持っていて、食べていない。端から見れば馬鹿げているが、そう断言できるほど単純な状況でもない。寒さで指が動かず、ただ火の場所を守ることに必死で、固い肉を噛む気力すら削られていたのだろう。食べ物は、口へ入れて胃に落とさなければ何の熱にもならない。
「粥を作りましょう」
レオンは立ち上がって言った。
「朝の配給分にはまだ早いぞ」
ミュロンが顔をしかめるが、レオンは帳面を開きながら首を振る。
「前倒しします。薄くていい。砕いた穀を湯で伸ばして、塩を少し。干し肉は刻んで入れてください」
「後がきつくなるぞ」
「今この男が起きなければ、後はありません」
ミュロンは一拍だけ沈黙し、レオンの目を見た。
「……兵站監代理殿の指示だ。手早くやれ!」
振り返りざま、ミュロンは火床を囲む兵たちへ向けて怒鳴った。
疑うより先に乗ってくれた。レオンの胸の奥で、何かが小さく熱を帯びた。それは火床の熱ではない。人を生かすための理屈が、目の前の鍋へ繋がった時だけ発熱する、厄介な職業的執着だった。
「テオドルス、控え札を出して。今朝の配給を前倒しします。倒れた者、膝をついた者、手が震えて食べられない者から優先です」
「ぜ、全員分ですか」
「全員には足りません」
きっぱりと言い切ると、テオドルスの顔が痛ましげに歪んだ。そんな顔は見たくなかったが、見ないで済む仕事ではない。
すぐに鍋が火へかけられた。雪を溶かした水に砕いた穀が入り、湯はすぐ白く濁って薄い粥になる。凍って刃が通りにくくなった干し肉を、ダフネが無言で引き抜き、自身の短剣で器用に細かく削り入れていった。
「口を開けさせてください」
レオンは倒れた男の肩を支え、粥を一匙すくって唇へ当てた。だが男の口は開かず、白い汁が顎を伝って氷りかける。
「飲め」
ダフネが短く言い放ち、男の顎を強引にこじ開けた。男の喉がかすかに動き、もう一匙を当てると今度は少しだけ喉の奥へ消えた。
粥一杯が命を戻すなどと言えば大げさだが、喉が動いた瞬間、周囲の兵が安堵の息を漏らしたのは確かだった。
「食わせれば歩きます」レオンは誰に言うともなく口を開いた。「食わせなければ、火のそばにいても倒れます。火の熱だけでは足りないんです」
「主計殿、こっちにもいるぞ!」
ミュロンの野太い声が飛んだ。火床の外側で、別の兵が座り込んでいる。目は開いているが焦点が合っておらず、手には麦袋の紐を固く握りしめたままだ。さらに、歩けるふりをしていた二人が、立ち上がろうとしてその場に崩れ落ちた。怠けではない。腹が空きすぎて、身体が前進を拒絶しているのだ。
「皆さん、食べ物を出してください」
レオンは火床の周りへ向き直った。兵たちの警戒する視線が突き刺さる。
「各自の袋を開けてください。隠している干し肉、砕いた穀、豆、何でもいい。倒れた者へ先に回します」
「ふざけるな!」
案の定、すぐさま反発の声が上がった。
「俺の分だぞ」
「はい、あなたの分です」
「昨日、火の場所も取られたんだ。今度は飯まで奪う気か!」
彼らの怒りはもっともだ。兵たちから見れば、レオンは二晩続けて自分たちの持ち物を奪う側に立っている。
「今倒れている彼らは、あなたの代わりに荷を担げますか」レオンは静かに問い返した。
「知るかよ!」
「担げない者が増えれば、代わりに荷を捨てることになります。荷を捨てれば、結果的にあなたの明日の配給分も減るんです」
「……脅しか」
「いいえ、ただの勘定です」
我ながら嫌な言い方だったが、今は理屈で逃げ道を塞ぐしかない。
不穏な空気が漂いかけた時、ミュロンが男の前に大股で歩み出た。
「出せ。主計殿の言い回しは気に食わねえが、腹が空いた兵は歩かねえんだよ。歩かねえ兵を置いていけば、その分のお鉢は明日お前に回ってくる。お前が二倍の荷を背負う気なら止めねえがな」
現場の痛みを突いた言葉は、兵の腹に落ちた。
男は忌々しげに舌打ちしながら袋を開け、干し肉を一切れ投げた。それに釣られて別の兵が豆を出し、誰かが砕いた穀を一握り差し出す。善意ではなく損得勘定だ。だが、今はそれで十分だった。
レオンは集めた食べ物を三つに仕分けした。口へ入れれば戻る者用、誰かが支えて食わせる者用、そしてすでに鍋の前まで自力で這って来られる者用だ。
「水で一気に流し込ませないでください。少しずつです。噛める者は噛ませて。噛めない者は粥の上澄みを先に」
「そんな悠長なこと言ってられるかよ」
「喉に詰まらせたら、もう息は戻りません!」
レオンが制止する横で、ダフネが倒れた兵の背中を無言で支え、少しずつ粥を流し込んでいる。ミュロンは歩ける者を集めて食べ物を運ばせ、テオドルスは配給札を震える手で数え直した。
レオンは火床から火床へ回り、粥を口へ運び、袋を開けさせ、立てる者は無理にでも立たせた。座りたがる者は、両脇から二人で挟んで歩かせる。単純なことだ。食わせれば歩く。
だが、その単純なことすら、数十人の下士官がひしめく大軍ではしばしば機能不全に陥る。誰が倒れたか分からず、誰の袋に食べ物が残っているか分からず、誰がそれを口へ運ぶ手を持っているか、全体を把握する人間がいないからだ。
ただの数字を記す帳面が、ここで初めて人の口に繋がる。レオンはその事実を、自己嫌悪を覚えるほどに気持ちよく感じてしまっていた。
「主計殿」
背後から声をかけられ、振り返るとクセノポンが立っていた。顔に疲労の色は濃いが、その目ははっきりと理性を保って起きている。
「どれだけ前倒しした」
「今朝の配給分の三分の一です。倒れた者と、倒れかけた者へ集中的に回しました」
「次の配給は」
「かなり薄くなります」
「それでも、夕方まで歩けるか」
決して責めているわけではない。今後の方針を立てるために、必要な数字を求めているだけの声だ。
「歩ける者は確実に増えます。ただし、夕方にまた限界が来ます。食わせて胃を動かした分、後で激しく腹が空くはずですから」
「それでも、今ここで全滅して止まるよりいい」
「はい」
話が早い。それが今のレオンには何よりの救いだった。現状の破綻と後で来る損耗、その両方を同じ天秤に載せてくれる人間がいるだけで、肩の荷が少しだけ軽くなる。
クセノポンは周囲の状況を見渡し、短く頷いた。
「続けてくれ。私は前へ行き、この遅れを前衛のケイリソポスへ伝えてくる」
彼はすぐさま踵を返した。主従ではない。レオンが命令を受けたというより、別系統の柱がそれぞれの場所で同じ軍の崩壊を押さえ込んでいるという感触だった。
最初に倒れた男が、昼前にはようやく立ち上がった。
足元はまだ頼りない。ダフネが無言で肩を貸し、レオンが干し肉の残りを男の手へ握らせる。
「噛んでください。歩きながらでいいですから」
「……すまない」
男がかすれた声で呟いた。
文句を言われると思っていたレオンは、一瞬反応に遅れた。
「謝るより、足を動かして歩いてください」
口から出たのはひどい返しだったが、男はかすかに笑ったように見えた。その口の端から、まだ粥が少しこぼれている。
昼過ぎまでに、何人かは隊列へ戻った。もちろん全員ではない。胃が食べ物を受けつけない者や、噛む力がなくて吐き出してしまう者もいた。それでも、数人が立ち、数人が歩いた。それだけで背負うべき荷は軽くなり、担ぎ手が減らず、駄獣に乗せる重さも少しだけ浮く。
その代償として、配給袋は目に見えて痩せ細っていた。
テオドルスが不安げに持ってきた帳面には、きれいに減りすぎた数字が並んでいる。
「主計殿……このままだと、夕方の配給がかなり薄い水割りになります」
「分かっています」
「明日の分も、確約できません」
「分かっています」
分かっている。痛いほど分かっているが、今朝倒れた者をそのまま雪に置き去りにすれば、夕方の粥を食べる口そのものが減っていたのだ。
どちらの地獄がマシか。そんな最悪の天秤しか残らないのが、この行軍の嫌なところだった。
隊列が再び動き出した。
雪は相変わらず白く、北風は容赦なく体温を奪っていく。兵たちは口を固く結び、ただ前の者の足跡だけを見て進んだ。先ほど粥を飲ませた男が、両脇を支えられながらも懸命に足を出している。
レオンはそれを見て、疲労で麻痺した胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
役に立った。その手応えだけは、どうしても否定しきれなかった。
だがその直後、前方から別の悲鳴のような声が上がった。
「見えねえ!」
強烈な雪の照り返しの中で、兵の一人が両手で目を押さえて蹲っていた。
「真っ白で、前が何も見えねえ!」
レオンはぴたりと足を止めた。
腹を満たしたと思えば、次は目だ。この白い地獄は、軍が通り抜けることを決して許そうとはしなかった。




