第九十九章 なくなった鍵
朝。
目覚ましが鳴った。
アポロンは目を開けた。
昨日の夜、少し早めにセットしておいた。
時計を見る。
予定通りだった。
「起きた?」
美咲が布団の中から聞く。
「起きた」
「今日は早いね」
「昨日、間に合わなかったから」
「何に?」
「朝に」
美咲が笑った。
「それ、どういう意味?」
「分からない」
「またそれ?」
二人で笑う。
朝食を食べる。
昨日の焦げたパンはもうない。
今日は普通に焼けた。
「今日は成功」
美咲が言う。
「うん」
「昨日よりおいしい」
「昨日のパンよりなら、何でもおいしい」
「ひどい」
朝は穏やかだった。
だから。
その後に起きることを、アポロンは知らなかった。
家を出る。
駅へ向かう。
途中で美咲が立ち止まる。
「ちょっと待って」
「どうした?」
美咲がバッグを探る。
「鍵がない」
「家の鍵?」
「うん」
バッグの中を全部見る。
ポケット。
財布の横。
小さなポーチ。
「ない」
アポロンも探す。
「昨日、帰った時は?」
「使った」
「その後は?」
「玄関に置いた……と思う」
二人で来た道を少し戻る。
道にはない。
コンビニにも寄っていない。
「家に戻ってみよう」
「うん」
戻る。
玄関を開ける。
靴を脱ぐ。
鍵を置く場所を見る。
ない。
テーブル。
ない。
洗面所。
ない。
台所。
ない。
「どこだろう」
美咲が困った顔をする。
アポロンは周囲を見る。
神だった頃なら。
探す必要などなかった。
鍵がどこにあるのか。
誰が触れたのか。
いつ移動したのか。
すべて分かる。
今は。
分からない。
「昨日の夜、どこに置いた?」
「覚えてない」
美咲は床に座り込んだ。
「どうしよう」
アポロンは少し考えた。
「順番に探そう」
「うん」
二人で探す。
ソファの下。
机の下。
ベッドの横。
冷蔵庫の上。
見つからない。
時間だけが過ぎる。
「仕事、遅れるかも」
「連絡しよう」
美咲がスマートフォンを取る。
その時。
アポロンがふと気づいた。
昨日。
帰ってきた時。
美咲は濡れた靴を脱いだ。
そして。
タオルを取った。
その後。
バッグを持ったまま洗面所へ行った。
「洗面所をもう一度見よう」
「さっき見たよ」
「もう一度」
二人で行く。
洗面台の横。
タオルの下。
美咲がタオルを持ち上げる。
「あった」
小さな鍵が落ちていた。
「なんでここに……」
「昨日、タオルを取る時に置いたのかもしれない」
美咲は鍵を拾う。
「よかった」
アポロンも頷く。
時計を見る。
予定より二十分遅い。
「急ごう」
二人で家を出る。
駅まで走る。
今度は昨日より少し速い。
駅に着く。
電車が入ってくる。
二人は乗り込む。
美咲が息を整えながら言った。
「朝から疲れた」
「うん」
「でも、見つかってよかった」
「そうだな」
アポロンは窓の外を見る。
鍵は小さい。
なくしても世界は変わらない。
けれど。
その小さなもの一つで、人間の予定は簡単に変わる。
それが少し面白かった。
仕事に着く。
健一が時計を見る。
「遅かったな」
「少し問題があった」
「大丈夫か?」
「鍵がなくなった」
「それは焦るな」
「見つかった」
「よかった」
午前中。
店は忙しかった。
アポロンはいつもより少し急いで動いた。
昨日の弁当のことを思い出す。
急ぐと。
別のところを間違える。
皿を一枚落としかける。
「危ない」
佐藤が受け止めた。
「ありがとうございます」
「今日はちょっと急いでます?」
「少し」
「じゃあ、いつも通りでいいですよ」
アポロンは頷いた。
「そうする」
昼。
仕事が落ち着く。
健一が水を飲みながら言った。
「朝から何かあった?」
「鍵を探していた」
「また?」
「また?」
「前にも財布を探してただろ」
アポロンは思い出す。
冷蔵庫の上に置いていた財布。
「そうだった」
健一が笑う。
「物って、なくした時だけ急に大事になるよな」
アポロンは少し考えた。
「なくしていない時も大事では?」
「そうなんだけどな」
健一は笑った。
「なくすと、それに気づくんだよ」
午後。
仕事が終わる。
帰り道。
美咲から連絡が来る。
『今日は鍵、ちゃんと置いたよ』
『どこに?』
『玄関』
アポロンは少し笑った。
『それなら大丈夫』
家に帰る。
玄関を見る。
鍵がある。
二人で確認する。
「今日はここ」
美咲が言う。
「うん」
「明日も忘れないようにしよう」
「明日も同じ場所に置けばいい」
「そうだね」
夜。
二人で夕食を食べる。
食後。
美咲が鍵を見る。
「これ、なくしたら困るね」
「うん」
「でも、見つかってよかった」
アポロンは鍵を見つめた。
神だった頃。
世界には、重要なものと重要ではないものがあった。
今は。
小さな鍵一つにも。
誰かの家。
誰かの生活。
帰る場所。
そういうものがつながっている。
アポロンは鍵を元の場所に置いた。
今度は。
なくさないためではなく。
帰る場所を確かめるように。




