第九十八章 間に合わなかった朝
朝。
目覚ましが鳴るより先に、アポロンは目を覚ました。
隣を見る。
美咲はまだ眠っている。
窓の外は、昨日とは違って暗かった。
雨が降っている。
アポロンは時計を見る。
いつもより少し遅い。
「美咲」
「ん……」
「雨だ」
「そう……」
美咲は布団の中から手だけを出した。
「今日は早い?」
「少し」
「じゃあ、もう少し寝ようかな」
「うん」
アポロンは起き上がった。
朝食を作る。
味噌汁を温める。
卵を焼く。
パンを焼く。
いつもより少し急いでいた。
その時。
焦げた匂いがした。
「……」
トースターを見る。
パンが黒くなっている。
「失敗した」
美咲が起きてきた。
「どうしたの?」
「パンが焦げた」
「珍しいね」
「時間を見ていた」
「何を?」
「雨の音」
美咲は少し笑った。
「そんな理由?」
「そう」
焦げたパンを皿に置く。
美咲が一口食べる。
「……これはちょっと苦い」
「そうだな」
「新しいの焼こう」
「うん」
二枚目は普通に焼けた。
朝食を終える。
二人で家を出る。
駅まで走る。
雨が強くなっていた。
「急がないと!」
美咲が言う。
アポロンは走る。
駅の階段を上る。
その時。
美咲の靴が滑った。
「危ない!」
アポロンが腕を掴む。
美咲は転ばなかった。
「……びっくりした」
「大丈夫?」
「うん」
美咲は靴を見る。
「靴、濡れてるから滑ったのかな」
「たぶん」
電車がホームに入ってくる。
二人は乗り込む。
「間に合った」
美咲が息を整える。
アポロンも頷いた。
電車が動き出す。
窓の外を雨が流れていく。
美咲は笑った。
「朝から大変だったね」
「そうだな」
「でも、間に合ってよかった」
アポロンはその言葉を聞いた。
間に合う。
間に合わない。
人間の一日は、そんな小さなことで変わる。
仕事に着く。
アポロンが店に入ると、健一が険しい顔をしていた。
「どうした?」
「予約の弁当、一つ足りない」
「いくつ必要?」
「十個」
アポロンは厨房を見る。
完成している弁当は九個。
時計を見る。
配達まで三十分。
「作れる?」
「作るしかない」
健一が言う。
二人で動く。
ご飯を詰める。
おかずを入れる。
容器を閉じる。
しかし。
最後の一つを閉じた時。
健一が蓋を開けた。
「これ、違う」
「何が?」
「一つ、おかずを入れ間違えてる」
アポロンは弁当を見る。
確かに違う。
「作り直す」
「時間がない」
「それでも」
二人でやり直す。
残り十分。
完成する。
健一が弁当を持って店を出る。
「行ってくる!」
「気をつけて」
アポロンは時計を見る。
しばらくして。
健一から電話が来た。
「間に合った」
「よかった」
「ありがとう」
電話が切れる。
アポロンは息を吐いた。
昼を過ぎる。
ようやく店が落ち着いた。
佐藤が言った。
「今日、大変でしたね」
「うん」
「でも、間に合いましたね」
アポロンは頷いた。
「間に合った」
午後。
雨はさらに強くなった。
帰る時間になっても、止まない。
美咲からメッセージが届く。
『今日は少し遅くなる』
アポロンは時計を見る。
『分かった』
駅へ向かう。
傘を差して歩く。
その途中。
信号の前で、足を止める。
赤信号。
車が通る。
雨が道路に落ちる。
アポロンはふと。
昔なら、この時間すら必要なかったと思った。
信号が変わる瞬間も。
雨が止む時間も。
美咲がいつ帰ってくるかも。
すべて知ることができた。
今は。
分からない。
だから。
駅で待つ。
三十分。
四十分。
五十分。
美咲から連絡はない。
アポロンはスマートフォンを見る。
何度も画面を確認する。
少しだけ。
不安になった。
「……」
神だった頃にはなかった感覚だった。
分からない。
連絡がない。
何が起きているのか知らない。
それでも。
待つしかない。
一時間ほどして。
スマートフォンが鳴った。
『ごめん。今着いた』
駅の入口を見る。
美咲が走ってくる。
「ごめん!」
「どうした?」
「電車が途中で止まってた」
美咲は息を切らしている。
「連絡しようとしたんだけど、電池がなくなって……」
「そうだったのか」
「心配した?」
アポロンは少し黙った。
「した」
美咲が目を丸くする。
「そっか」
「何かあったのかと思った」
「ごめんね」
「大丈夫」
美咲は少し笑った。
「じゃあ、帰ろう」
二人で歩き始める。
雨はまだ降っている。
途中で、美咲が言った。
「今日、朝からずっと急いでたね」
「うん」
「疲れた?」
「少し」
「じゃあ、帰ったら温かいもの食べよう」
「何がいい?」
「うどん」
「分かった」
家に帰る。
濡れた靴を脱ぐ。
タオルで髪を拭く。
鍋に湯を沸かす。
うどんを入れる。
卵を落とす。
二人で食べる。
朝は焦げたパン。
昼は間に合うか分からなかった弁当。
夜は、ようやく落ち着いた食事。
アポロンは湯気の向こうにいる美咲を見る。
今日は。
予定通りには進まなかった。
それでも。
一日は終わった。
食事を終える。
美咲が言う。
「今日は大変だったけど」
「うん」
「最後はよかったね」
アポロンは少し考える。
「そうだな」
けれど。
今日一日を思い返してみると。
「最初から全部うまくいっていたら、たぶん今の感じにはならなかった」
美咲が笑う。
「それ、ちょっと難しいね」
「そうか?」
「うん」
「では、忘れていい」
「分かった」
二人で笑う。
その夜。
アポロンは目覚ましをセットした。
明日の朝。
ちゃんと起きるために。
そして。
スマートフォンを枕元に置いた。
何か起きるかは分からない。
けれど。
今度は、分からないまま眠ることにした。




