第九十七章 朝の音
朝。
アポロンは、いつもより早く目を覚ました。
外から音が聞こえる。
車の音。
遠くを走る電車の音。
どこかの家で、窓を開ける音。
そして。
小さな鳥の声。
アポロンは布団の中でしばらく聞いていた。
神だった頃。
世界の音は、すべて知っていた。
どこで誰が話しているのか。
どこで雨が降っているのか。
どの街で誰が眠っているのか。
必要なら、すべてを同時に知ることができた。
だから。
音を聞く必要がなかった。
聞く前に、すでに知っていたからだ。
今は違う。
壁の向こうの音は、聞こえない。
遠くの音も、全部は分からない。
だから。
聞こえてくる音だけを聞く。
それが少し楽しかった。
「起きてる?」
美咲の声がした。
「起きている」
「早いね」
「音が聞こえた」
「何の音?」
「いろいろ」
美咲はまだ眠そうな顔で窓を開けた。
朝の空気が入ってくる。
「今日は晴れそうだね」
アポロンは空を見る。
「晴れる」
「分かるの?」
「天気予報を見た」
美咲が笑った。
「そういうことね」
朝食を食べる。
昨日の自転車で少し疲れていたのか、美咲はいつもよりゆっくり食べている。
「筋肉痛?」
「少し」
「私も」
アポロンは自分の脚を見る。
「人間の身体は、翌日に痛くなることがある」
「そうだよ」
「昨日は平気だった」
「だから今日痛いんだよ」
アポロンは納得した。
仕事へ行く。
店に着くと、健一が入口の前に立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
健一は空を見上げる。
「今日は客が多そうだな」
「なぜ?」
「天気がいいから」
アポロンも空を見る。
「昨日より明るい」
「そういうこと」
店を開ける。
午前中から忙しかった。
注文が続く。
皿が足りなくなる。
料理を運ぶ。
客が帰る。
また客が来る。
気がつけば昼だった。
昼休み。
アポロンは外に出た。
自動販売機の前に立つ。
いつものコーヒーを買う。
缶を開ける。
一口飲む。
その時。
隣の自動販売機から、小さな音がした。
「ん?」
見ると。
釣り銭のところから、硬貨が一枚落ちた。
誰かが取り忘れたらしい。
アポロンは硬貨を拾った。
周囲を見る。
人はいない。
自動販売機の横に、小さな管理会社の表示がある。
アポロンは少し考えた。
そのまま持って帰ることもできる。
けれど。
それは自分のお金ではない。
店に戻り、健一に見せる。
「これ、どうした?」
「自動販売機に落ちていた」
「一枚?」
「うん」
健一は硬貨を見る。
「じゃあ、横の管理会社に電話してみるか」
「そうする」
電話をする。
事情を説明する。
「分かりました。こちらで対応します」
電話が終わる。
「これでいい?」
健一が聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「相手がどうするかまでは分からない」
健一が笑った。
「それでいいよ」
仕事に戻る。
午後。
一人の客が帰り際に言った。
「さっき、落とし物を届けてくれた人ですよね?」
アポロンは振り返った。
「え?」
「自動販売機のところ」
「あなたのものだった?」
「はい」
客は財布を取り出した。
「小銭を一枚取り忘れていて……」
アポロンは硬貨を渡した。
「これです」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
客は何度も頭を下げた。
「助かりました」
「一枚だけだった」
「それでもです」
客は笑って店を出ていった。
健一が横から言った。
「よかったな」
「うん」
「一枚でも大事な時はあるんだろうな」
アポロンは頷いた。
金額だけでは。
その物の価値は決まらない。
そういうことも。
少しずつ分かってきた。
仕事が終わる。
帰り道。
美咲からメッセージが来る。
『今日は先に帰るね』
『分かった』
アポロンは一人で帰る。
途中の店で夕食を買う。
家に着く。
鉢植えを見る。
昨日より葉が少し開いている。
アポロンは水をやる。
それから。
窓を少し開ける。
外から風が入ってくる。
朝に聞いた音とは違う。
車の音。
誰かの話し声。
遠くの電車。
夜の街の音。
アポロンはしばらく立ったまま聞いていた。
全部を知る必要はない。
聞こえたものだけでいい。
知らない音が残っていてもいい。
やがて。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が帰ってくる。
「今日、何してた?」
「仕事」
「それ以外は?」
アポロンは少し考えた。
「音を聞いていた」
「音?」
「朝の音」
美咲は少し笑った。
「変なの」
「そうか?」
「うん。でも、アポロンらしいかも」
二人で夕食を食べる。
窓の外では、まだ街の音がしていた。
アポロンはそれを聞きながら。
人間の世界は、知らない音が多いと思った。
そして。
それを全部知る必要はないのだと。
今は、少しだけ思えるようになっていた。




