第九十六章 うまく曲がれない
休日の午後。
アポロンは、美咲と一緒に駅の近くを歩いていた。
「ちょっと行ってみたいところがある」
美咲が言った。
「どこ?」
「自転車を見たい」
店の前に、何台もの自転車が並んでいた。
アポロンは足を止める。
「これが?」
「うん」
「乗るのか?」
「乗ったことない?」
「ない」
美咲が少し驚いた。
「一回も?」
「ない」
「じゃあ、乗ってみる?」
アポロンは自転車を見る。
二つの車輪。
ハンドル。
ペダル。
構造は理解できる。
乗り方も分かる。
転ばない方法も。
重心の移動も。
速度と摩擦の関係も。
すべて知っている。
「できると思う」
「その言い方、ちょっと不安なんだけど」
近くのレンタサイクルを借りる。
二人で少し広い場所へ向かう。
美咲が先に乗る。
ゆっくり進む。
「こんな感じ」
アポロンも自転車にまたがる。
ペダルを踏む。
動く。
「……」
「どう?」
「問題ない」
そのまま数メートル進む。
そして。
曲がろうとする。
ハンドルを動かす。
自転車が思ったより大きく傾いた。
「アポロン!」
足を地面につける。
止まった。
「……」
「大丈夫?」
「大丈夫」
美咲が笑いをこらえている。
「何?」
「いや……」
「笑っている」
「だって、すごく慎重だったから」
「転ぶ可能性があった」
「うん」
「だから止めた」
「正しいと思うよ」
もう一度乗る。
今度はゆっくり曲がる。
右。
左。
少し進む。
止まる。
また進む。
最初よりは上手くなった。
「できた」
「できたね」
アポロンは少しだけ嬉しかった。
自転車に乗ること自体は、難しくない。
けれど。
頭で理解していることと。
身体が自然に動くことは違う。
それは、料理の時にも感じた。
仕事でもそうだった。
人間の身体には、知識だけでは埋まらない時間がある。
何度も繰り返して。
少しずつ慣れていく。
夕方。
二人は川沿いの道を走った。
風が冷たい。
アポロンは速度を少し落とした。
「寒い?」
「少し」
「じゃあ、ゆっくり行こう」
「うん」
自転車を止める。
川の向こうに、夕方の街が見える。
美咲が言った。
「自転車って、便利だね」
「歩くより速い」
「でも、電車より遅い」
「そうだな」
「だから、ちょうどいいんじゃない?」
アポロンは川を見る。
速すぎず。
遅すぎない。
自分で進む速度を決められる。
再び走り始める。
しばらくして、小さな坂道に入った。
アポロンはペダルを強く踏む。
しかし。
思ったより進まない。
「……」
さらに踏む。
息が少し苦しくなる。
「アポロン、無理しなくていいよ」
「まだ大丈夫」
「顔が大丈夫じゃない」
アポロンはペダルを止めた。
自転車を降りる。
「歩こう」
「うん」
二人で自転車を押して坂を上る。
頂上に着く。
アポロンは少し息を整えた。
「疲れた?」
「少し」
美咲が笑う。
「じゃあ、人間らしいね」
アポロンは返事をしなかった。
ただ。
自分の呼吸を聞いていた。
神だった頃。
疲労というものは存在しなかった。
必要なら、身体そのものを変えればよかった。
けれど今は。
息が上がる。
足が重い。
休みたいと思う。
その感覚を。
アポロンは嫌いではなかった。
帰り道。
今度は下り坂だった。
自転車に乗る。
風が顔に当たる。
自然に速度が上がる。
「速いよ!」
美咲の声が聞こえる。
アポロンはブレーキをかけた。
速度を落とす。
二人はゆっくり坂を下った。
家に帰る。
玄関に自転車を止める。
美咲が言った。
「今日はどうだった?」
アポロンは少し考えた。
「曲がるのが難しかった」
「そこ?」
「あと、坂道も」
「それだけ?」
「疲れた」
美咲が笑った。
「じゃあ、今日はよく眠れそうだね」
「そうかもしれない」
夜。
アポロンは布団に入る。
身体が少し重い。
目を閉じる。
今日は。
自分の力ではなく。
自分の身体で一日を終えた。
それだけのことが。
妙に心地よかった。




