第九十五章 少しだけ変わった朝
朝。
アポロンは目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い光が入っている。
いつもの朝だった。
布団から出る。
顔を洗う。
台所へ向かう。
そして。
窓際に置いた鉢植えを見る。
昨日と同じ場所にある。
葉も。
花も。
ほとんど変わっていない。
アポロンは少しだけ近づいた。
「……」
よく見る。
すると。
小さな葉が一枚、開いていた。
昨日はなかった。
「美咲」
「ん……?」
まだ眠そうな声が返ってくる。
「少し来てほしい」
「どうしたの?」
美咲が起きてくる。
アポロンは鉢植えを指した。
「ここ」
「ん?」
美咲が顔を近づける。
「……あ」
小さな葉を見つける。
「新しい葉だね」
「昨日はなかった」
「うん」
二人でしばらく眺める。
美咲が笑った。
「ちゃんと育ってるね」
「水をやったから?」
「それだけじゃないと思うよ」
「では、何が必要なんだ?」
「日光とか、土とか、水とか……いろいろ」
アポロンは鉢を見る。
一つの変化に。
いくつものものが関わっている。
神だった頃なら、植物が育つ仕組みも知っていた。
どれくらいの水が必要なのか。
どの温度なら成長するのか。
どの時間に光を受ければいいのか。
すべて知っている。
けれど。
知っていることと。
毎朝、その変化を見ることは違う。
「毎日見たくなるね」
美咲が言った。
アポロンは頷いた。
「うん」
朝食を食べる。
仕事へ行く。
店ではいつも通りだった。
昼過ぎ。
健一が店の入口を見ながら言った。
「最近、あの子来ないな」
「あの子?」
「先週よく来てた学生」
アポロンは考える。
「今日は来るかもしれない」
「分からないだろ」
「そうだな」
健一が笑う。
「前より人間らしくなったな」
「どういう意味?」
「分からないって言えるようになったってこと」
アポロンは少し考えた。
「分からないことは、悪いことではない」
「そうだな」
健一はそれ以上言わなかった。
午後。
その学生が店に来た。
「いらっしゃいませ」
アポロンが声をかける。
学生は少し驚いた顔をして。
「こんにちは」
と言った。
注文を聞く。
料理を運ぶ。
食べ終わる。
会計をする。
「ありがとうございました」
学生は軽く頭を下げて、店を出ていった。
健一が笑う。
「来たな」
「うん」
「だからって、何か特別なことがあるわけじゃないけどな」
「そうだな」
アポロンも笑った。
夕方。
仕事が終わる。
帰り道。
スーパーに寄る。
野菜を買う。
牛乳を買う。
それから。
植物用の小さな霧吹きを手に取る。
「それ、必要?」
美咲が聞く。
「分からない」
「また?」
「使ってみたい」
「じゃあ買おうか」
家に帰る。
鉢植えの葉に、少しだけ水を吹きかける。
細かな水滴が葉の上に残る。
美咲が言った。
「やりすぎると駄目かもしれないよ」
アポロンは手を止める。
「そうなのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も詳しくないから」
アポロンは霧吹きを置いた。
二人とも分からない。
それでも。
植物は窓際にある。
夜。
アポロンは鉢植えを見ながら、しばらく立っていた。
明日の朝。
新しい葉が増えているかもしれない。
何も変わっていないかもしれない。
枯れている可能性だってある。
それを。
今は確かめる必要がなかった。
アポロンはカーテンを閉めた。
そして、初めて。
明日の朝まで見ないことにした。




