第九十四章 うまくできないこと
休日の朝。
アポロンは台所に立っていた。
冷蔵庫を開ける。
卵。
牛乳。
野菜。
昨日買った鶏肉。
一通り揃っている。
「今日は何作るの?」
美咲が後ろから覗き込んだ。
「考えているところ」
「珍しいね」
「何が?」
「いつもなら、もう決めてるから」
アポロンは冷蔵庫の中をもう一度見る。
「では、今日は決めずに作ってみる」
「それ、一番危ないやつじゃない?」
美咲が笑った。
アポロンは鍋を取り出した。
野菜を切る。
鶏肉を切る。
鍋に入れる。
火をつける。
しばらく待つ。
「何になるの?」
「まだ分からない」
「料理なのに?」
「料理だから、では?」
「よく分からない」
美咲は笑いながら椅子に座った。
アポロンは鍋を見た。
湯気が上がっている。
匂いも悪くない。
少し味見をする。
「……薄い」
塩を少し入れる。
もう一度味見をする。
「今度は?」
「まだ薄い」
もう少し入れる。
「……」
アポロンは黙った。
「どうしたの?」
「入れすぎた」
美咲が立ち上がる。
鍋を覗き込む。
「どれくらい?」
「分からない」
「ちょっと食べてみる」
美咲が味見をする。
「うん」
「どう?」
「ちょっとしょっぱい」
アポロンは鍋を見る。
「戻せない」
「水を足せばいいじゃん」
「そうか」
水を足す。
少し煮る。
もう一度味見をする。
「今度は?」
「大丈夫」
アポロンは頷いた。
「料理は難しい」
「そう?」
「材料の量が同じでも、同じ味になるとは限らない」
「人によっても違うしね」
「人によって?」
「私はもう少し薄い方が好き」
アポロンは美咲を見る。
「では、次はそうする」
「次があるんだ」
「ある」
昼。
二人で食卓につく。
完成した料理は、特別なものではなかった。
少し煮すぎた野菜。
少し濃くなった汁。
けれど。
食べられないほどではない。
「普通においしいよ」
美咲が言った。
「普通か」
「うん」
アポロンは少し考えた。
神だった頃。
失敗というものを知らなかった。
何かを望めば、結果は決まっていた。
間違えることもない。
やり直す必要もない。
けれど。
人間になってからは。
一度で上手くできないことが増えた。
皿を落としそうになった。
電車を乗り過ごした。
眠れない夜もあった。
料理の味付けを間違えた。
そのたびに。
人間は、その場で直していく。
水を足す。
もう一度やる。
別の方法を試す。
完璧ではないまま、一日を終える。
それが。
思っていたより悪くなかった。
午後。
二人で近所を歩いた。
商店街の小さな店の前で、美咲が立ち止まる。
「これ、かわいい」
店先に小さな植木鉢が並んでいた。
白い花。
黄色い花。
名前の書かれた札もある。
アポロンは一つの鉢を見た。
「これにする」
「育てるの?」
「うん」
「植物、育てたことある?」
「ない」
「大丈夫かな」
「分からない」
美咲は笑った。
「じゃあ、一緒にやってみよう」
鉢を一つ買う。
家に帰る。
窓際に置く。
水を少しだけやる。
アポロンは鉢を見つめる。
何も起こらない。
「……」
「どうしたの?」
「変化がない」
「すぐには変わらないよ」
「そうなのか」
「うん」
アポロンはしばらく待った。
もちろん。
花が一瞬で咲くこともできる。
枯れた葉を元に戻すこともできる。
時間そのものを変えることだってできる。
けれど。
今は何もしない。
水をやった。
それだけでいい。
「明日には咲く?」
美咲が聞く。
アポロンは花を見る。
「分からない」
「それでいいんじゃない?」
美咲はそう言って、窓を閉めた。
夜。
アポロンは鉢植えを見た。
今日買ったばかりの小さな花。
まだ何も変わっていない。
それでも。
明日の朝、少しだけ違っているかもしれない。
アポロンはその可能性を残したまま、部屋の明かりを消した。




