第九十三章 言葉にしない返事
朝。
アポロンは目を覚ました。
隣では、美咲がまだ眠っている。
昨日の夜は、いつもより長く話した。
それでも。
朝になると、いつもの時間が戻ってくる。
アポロンは静かに布団を出た。
台所へ行く。
湯を沸かす。
コーヒーを淹れる。
二つのカップを並べる。
しばらくして、美咲が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
美咲は椅子に座った。
「昨日、ありがとう」
「何が?」
「話を聞いてくれたこと」
「それくらいなら、できる」
「それが大事なんだよ」
アポロンは少し考えた。
「そうなのか」
「うん」
朝食を食べる。
それ以上、その話はしなかった。
家を出る。
駅まで歩く。
途中で、美咲が立ち止まった。
「アポロン」
「何?」
「今日、帰りに少し寄り道してもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、あとで連絡する」
「分かった」
駅で別れる。
アポロンは電車に乗る。
仕事へ向かう。
午前中。
店は忙しかった。
注文を受ける。
料理を運ぶ。
皿を片付ける。
何度も同じ作業を繰り返す。
昼過ぎ。
一人の客が会計を終えた。
「ありがとうございました」
アポロンが頭を下げる。
客は何も言わずに出ていった。
けれど。
ドアのところで一度だけ振り返った。
アポロンと目が合う。
客は小さく頭を下げた。
アポロンも頭を下げる。
それだけだった。
言葉はなかった。
けれど。
何かが伝わったような気がした。
「今の、知り合い?」
健一が聞く。
「知らない人」
「じゃあ、なんで頭下げたんだ?」
「向こうが下げたから」
「なるほど」
健一は笑った。
「人間って、そういうことするよな」
「言葉がなくても?」
「うん」
午後。
佐藤が皿を運んでいる。
一枚だけ、少し汚れていた。
アポロンが気づく。
「それ、もう一度洗った方がいい」
「本当だ」
佐藤は皿を戻す。
「ありがとうございます」
アポロンは頷いた。
それ以上は言わなかった。
仕事が終わる。
スマートフォンを見る。
美咲からメッセージが来ていた。
『駅の近くにいるよ』
『今行く』
駅へ向かう。
美咲は改札の近くに立っていた。
「お待たせ」
「ううん」
「どこ行く?」
「こっち」
歩き始める。
駅の反対側に、小さな公園がある。
そこにベンチが一つ。
二人で座る。
美咲は何も言わない。
アポロンも聞かない。
しばらく風の音だけが聞こえる。
やがて。
美咲が小さく笑った。
「こういう時間もいいね」
「うん」
「何も話さなくても」
「そうだな」
二人で座っている。
話すことはない。
けれど。
帰る必要もない。
アポロンは思った。
神だった頃。
沈黙は、ただの情報の欠如だった。
今は違う。
隣に誰かがいて。
何も言わない。
それでも、そこにいる。
それだけで時間になる。
しばらくして、美咲が立ち上がった。
「帰ろうか」
「うん」
歩き出す。
帰り道。
美咲がコンビニの前で立ち止まる。
「何か買う?」
「コーヒー」
「また?」
「うん」
二人で店に入る。
アポロンはいつものコーヒーを手に取った。
美咲は別の飲み物を選ぶ。
レジを済ませる。
店を出る。
アポロンは缶を開ける。
温かい。
「やっぱりこれだな」
「気に入ってるね」
「うん」
家に帰る。
夕食を食べる。
テレビをつける。
二人でそれを見る。
特別な話はしない。
それでも。
一日は終わっていく。
夜。
アポロンは白いノートを開いた。
今日のことを思い出す。
言葉を交わさなかった時間。
頭を下げただけの客。
何も話さずに座っていた美咲。
言葉がなくても。
人間は誰かと関わることができる。
アポロンはペンを持った。
そして、短く書いた。
『言葉がないことも、返事になる。』
その一行を見て。
今日はそれ以上書かなかった。
ノートを閉じる。
部屋の明かりを消す。
隣から、美咲の寝息が聞こえる。
アポロンは目を閉じた。
静かな夜だった。
けれど。
何もない夜ではなかった。




