第九十二章 言わなかったこと
朝。
アポロンが目を覚ますと、美咲はまだ眠っていた。
昨日は遅かった。
無理に起こす必要はない。
アポロンは静かに布団から出る。
台所へ行き、コーヒーを淹れる。
カップを一つだけ用意する。
いつもなら二つ。
けれど今日は、一つでいい。
朝食を食べ終える頃、美咲が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「もう食べた?」
「うん」
「昨日遅かったから、今日は少しゆっくりしてもいいよ」
「ありがとう」
美咲は椅子に座った。
しばらくして、スマートフォンを見る。
一通のメッセージが届いていた。
美咲は画面を見て、少しだけ表情を変えた。
「どうした?」
アポロンが聞く。
「ううん」
美咲はスマートフォンを伏せた。
「何でもない」
アポロンはそれ以上聞かなかった。
以前なら。
相手の表情が変わった理由まで知ろうとしただろう。
いや。
神だった頃なら、知ろうとする必要すらなかった。
けれど今は。
美咲が話したくないなら、それでいい。
朝食を終える。
美咲はスマートフォンを持ったまま、しばらく考えている。
「返事、しないの?」
「あとで」
「そうか」
それだけだった。
仕事へ向かう。
電車の中。
昨日のことを思い出す。
待つこと。
待ってもらうこと。
そして。
相手が何を考えているのか、分からないこと。
駅に着く。
仕事を始める。
午前中。
健一がアポロンに声をかけた。
「これ、あとでお願いできるか?」
「何?」
「仕入れたものを倉庫に運んでほしい」
「分かった」
「急がなくていい」
「うん」
仕事を続ける。
昼過ぎ。
アポロンは倉庫へ向かう。
箱を一つ持ち上げる。
二つ目。
三つ目。
その時。
一番下の箱が少し傾いた。
「……」
アポロンはすぐに手を止めた。
以前なら、そのまま持ち上げていただろう。
けれど。
佐藤に教えられたことを思い出す。
無理に重ねない。
一つずつ運ぶ。
箱を置き直す。
そして、少しずつ運んだ。
作業が終わる。
健一が言う。
「今日は慎重だな」
「前に失敗したから」
「覚えてたか」
「覚えている」
健一は笑った。
「それならいい」
仕事が終わる。
帰り道。
アポロンはスマートフォンを見る。
美咲からメッセージが来ていた。
『今日、少し話したいことがある』
アポロンは立ち止まった。
『分かった』
それだけ返した。
家に帰る。
美咲はまだ帰っていなかった。
アポロンは夕食を作る。
二人分。
しばらくして、玄関が開く。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は荷物を置く。
「ご飯、できてる?」
「うん」
二人で食卓につく。
食事を始める。
けれど。
美咲はなかなか話さない。
アポロンも急かさない。
食事が半分ほど終わったところで。
美咲が口を開いた。
「朝のメッセージなんだけど」
「うん」
「友達からだった」
「うん」
「少し相談されてた」
「そうか」
「それで、どう答えようか考えてた」
アポロンは箸を置いた。
「それなら、時間が必要だな」
「うん」
美咲は少し笑った。
「アポロンって、最近こういう時、あまり聞かなくなったね」
「聞いてほしい時は、話してくれると思っている」
美咲は少し驚いた。
「そうなんだ」
「違う?」
「ううん」
美咲は首を横に振った。
「それでいいと思う」
食事を続ける。
しばらくして、美咲が話し始める。
友達の話。
仕事の話。
どう返事をするか迷っていたこと。
アポロンは聞く。
解決策をすぐに言わない。
ただ聞く。
話が終わる。
美咲は息を吐いた。
「話したら少し楽になった」
「そうか」
「ありがとう」
「どういたしまして」
夜。
美咲は先に眠った。
アポロンは机に向かう。
白いノートを開く。
しばらく考える。
そして、一行だけ書いた。
『言わないことと、話したくないことは、同じではない。』
ペンを置く。
人間は。
話す時を選ぶ。
話す相手を選ぶ。
言葉にすることを選ぶ。
そして。
言わないままにしておくことも選ぶ。
アポロンは、その選択を急がせないことも。
人と一緒にいる方法の一つなのだと思った。
ノートを閉じる。
明日のことは、まだ分からない。
それでも。
今夜は、もう十分だった。




