第九十一章 誰かを待たせること
朝。
美咲は出かける前に、郵便物を確認していた。
「これ、出してくるね」
昨日書いた手紙を見せる。
「分かった」
「帰りに出してくる」
「うん」
玄関のドアが閉まる。
アポロンは一人になった。
朝食を食べる。
コーヒーを飲む。
そして、いつものように仕事へ向かった。
駅まで歩く途中。
スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
『今日、帰り少し遅くなるかも』
アポロンは返信する。
『分かった。待ってる』
送信する。
画面を見る。
すぐに返信は来ない。
アポロンはスマートフォンをポケットにしまった。
仕事が始まる。
午前中。
忙しかった。
料理を運ぶ。
皿を片付ける。
注文を取る。
時間が早く過ぎていく。
昼休み。
アポロンはスマートフォンを確認した。
新しいメッセージはない。
「まだか」
独り言のように呟く。
佐藤が聞く。
「何か待ってるんですか?」
「美咲からの連絡」
「なるほど」
「遅くなると言っていた」
「じゃあ、まだ帰ってないんじゃないですか?」
「そうだな」
佐藤は笑った。
「なら、待つしかないですね」
「うん」
午後。
仕事が終わる。
アポロンは駅へ向かう。
帰り道。
スマートフォンを見る。
まだ連絡はない。
家に帰る。
部屋は暗い。
美咲はまだ帰っていなかった。
アポロンは電気をつける。
冷蔵庫を開ける。
夕食をどうするか考える。
一人で食べることもできる。
けれど。
「待とう」
そう決めた。
テレビをつける。
しばらく見る。
時計を見る。
まだ来ない。
本を読む。
数ページ。
時計を見る。
まだ来ない。
白いノートを開く。
何も書かない。
また閉じる。
時間だけが過ぎていく。
神だった頃。
待つ必要などなかった。
誰かがどこにいるのか。
何をしているのか。
いつ戻ってくるのか。
すべて分かっていた。
だから。
待つという行為そのものを、知らなかった。
今は違う。
美咲がいつ帰ってくるのか分からない。
何をしているのかも分からない。
少し心配になった。
それでも。
「帰ってくるかもしれない」
そう思っている。
それだけで、ここにいる理由になる。
午後八時を過ぎた。
スマートフォンが鳴った。
『ごめん。今から帰る』
アポロンはすぐに返信する。
『分かった。気をつけて』
送信する。
少しして。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が靴を脱ぐ。
「待ってた?」
「うん」
「ごめんね」
「大丈夫」
美咲は少し疲れた顔で笑った。
「ありがとう」
アポロンは台所へ行く。
「何か食べる?」
「少しだけ」
「分かった」
二人分の食事を準備する。
温めるだけの簡単なもの。
それでも。
二人で食卓につく。
美咲が箸を持つ。
「やっぱり、家で食べると落ち着く」
「そうか」
「待っててくれてありがとう」
アポロンは少し考えた。
「待っていたかった」
「どうして?」
「一緒に食べたかったから」
美咲は少し黙って。
「そっか」
とだけ言った。
食事が終わる。
美咲が食器を片付ける。
アポロンも手伝う。
その時。
美咲がふと思い出したように言った。
「そうだ」
「何?」
「手紙、出してきたよ」
「返事は?」
「まだ」
「そうか」
美咲は笑った。
「今日出したばかりだからね」
「そうだな」
アポロンも笑った。
まだ返事はない。
それでも。
手紙はもう相手のところへ向かっている。
今日待っていた美咲も帰ってきた。
返事を待つ時間も始まった。
アポロンは思った。
人間は。
誰かを待つだけではなく。
誰かに待ってもらうこともある。
自分が待つ側になることもあれば。
自分の帰りを誰かが待っていることもある。
それは、少し不思議だった。
夜。
布団に入る。
隣では美咲が眠っている。
アポロンは目を閉じる。
今日。
誰かを待った。
そして。
誰かに待ってもらった。
どちらも、同じ一日の中にあった。
神だった頃には。
必要のなかった時間だった。
けれど。
今は。
その時間があることを、少し大切に思えた。




