第九十章 返事のない手紙
朝。
アポロンは、いつもより少し早く家を出た。
昨日の夜から、なんとなく郵便受けが気になっていた。
理由は分からない。
ただ、朝の空気の中で、一度見てみようと思った。
郵便受けを開ける。
広告が数枚。
請求書。
そして、小さな封筒が一つ。
宛名は、美咲だった。
「美咲」
アポロンが呼ぶ。
美咲が玄関から出てくる。
「何?」
「これ」
封筒を渡す。
美咲は宛名を見る。
「ああ」
「知っている?」
「たぶん、友達」
「開ける?」
「私宛だから、自分で開けるよ」
「そうだな」
美咲は封筒を持って部屋へ戻った。
アポロンも後から入る。
美咲は封筒を開ける。
便箋を取り出す。
読み始める。
アポロンは見ない。
コーヒーを淹れる。
しばらくすると、美咲が便箋を折った。
「どうだった?」
「普通の手紙」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
美咲は手紙を机の引き出しにしまった。
「返事を書くの?」
「うん。あとで」
アポロンは頷いた。
「手紙って、返事が必要なんだな」
「必ずじゃないよ」
「そうなのか?」
「返事を書きたい時に書けばいい」
「相手は待つだろう?」
「待つかもしれないね」
「それでも?」
「それでも」
アポロンは少し考えた。
返事が来る。
返事を書く。
返事を待つ。
その間に時間が流れる。
神だった頃。
アポロンにとって、待つということは必要なかった。
問いがあれば答えを知っていた。
願いがあれば、その結果も知っていた。
返事を待つ時間など存在しなかった。
今は違う。
人間は、誰かに手紙を送って。
相手がいつ読むのかも分からないまま。
返事が来るのを待つ。
それだけのことなのに。
少し不思議だった。
仕事へ向かう。
店に着く。
「おはよう」
「おはよう」
いつもの仕事が始まる。
昼過ぎ。
店に一人の客が入ってきた。
食事を終え、会計をする。
財布をしまいながら、その客が言った。
「また来ます」
「ありがとうございます」
客が出ていく。
アポロンは、その言葉を聞いていた。
「また来ます」
それは約束ではない。
いつ来るのかも分からない。
本当に来るかどうかも分からない。
それでも。
人間はそう言う。
アポロンは少し考えた。
昨日の女性も言っていた。
「また来ます」
本当に来た。
だからといって。
今日の客も必ず来るとは限らない。
それでも、その言葉を疑う必要はない。
午後。
佐藤がスマートフォンを見ながらため息をついた。
「どうした?」
「友達にメッセージ送ったんですけど、まだ返事がないんですよ」
「いつ送った?」
「一時間くらい前です」
「一時間」
「はい」
「それくらいなら、まだ分からないな」
佐藤が笑う。
「そうですよね」
スマートフォンをポケットに戻す。
アポロンはその様子を見ていた。
一時間。
返事がない。
それだけで、人間は少し気になる。
けれど。
返事がないことと、返事をしないことは同じではない。
忙しいのかもしれない。
寝ているのかもしれない。
スマートフォンを見ていないのかもしれない。
あるいは。
まだ返事を考えているのかもしれない。
神だった頃なら。
その理由まで知っていただろう。
今は。
知らない。
仕事が終わる。
家に帰る。
美咲は机で手紙を書いていた。
「まだ書いてる?」
「うん」
「長い?」
「そんなに長くないよ」
アポロンは台所で夕食の準備をする。
しばらくして。
美咲が封筒を閉じた。
「終わった」
「返事を書くのに時間がかかったな」
「何を書こうか考えてたから」
「返事は、すぐに決めなくてもいいんだな」
「そうだね」
美咲は封筒をバッグに入れた。
「明日出す」
「明日なんだ」
「今日はもう遅いから」
アポロンは頷いた。
手紙は完成した。
けれど。
相手に届くのは明日。
その後。
相手が読む。
そして。
返事を書くかもしれない。
返事が来るまで、さらに時間がかかる。
一つの言葉が、人から人へ届くまでに。
人間は多くの時間を使う。
それは不便にも見えた。
けれど。
その不便な時間の中に。
相手を思いながら言葉を選ぶ時間がある。
アポロンは、少しだけ分かった気がした。
夜。
美咲が眠ったあと。
アポロンは机の前に座った。
昨日買った白いノートを開く。
一ページ目。
二ページ目。
今日のページに、ゆっくり書いた。
『返事がない時間にも、意味があるのかもしれない。』
ペンを置く。
それ以上は書かなかった。
返事は、まだ来ていない。
それでも。
待つことはできる。
アポロンはノートを閉じた。
そして、明日の朝を迎えることにした。




