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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第八十九章 知らない人の言葉

朝。


アポロンは、昨日の本を鞄に入れた。


仕事へ行く前に、少しだけ続きを読みたかった。


駅のベンチに座る。


ページを開く。


物語は、昨日とは少し違う場所へ進んでいた。


登場人物が何をするのか。


アポロンには分からない。


それが楽しかった。


電車が来る。


本を閉じる。


鞄に入れる。


仕事へ向かう。


店に着くと、健一が入口の前に立っていた。


「おはよう」


「おはよう」


健一が何かを手に持っている。


「これ、昨日の客が置いていった」


小さな紙だった。


「何?」


「メモ」


アポロンが受け取る。


紙には短い文字が書かれていた。


『昨日はありがとうございました。』


その下に、もう一行。


『また来ます。』


アポロンは紙を見た。


「誰が書いた?」


「昨日の女性だよ」


写真を忘れていった女性だった。


「そうか」


「レジのところに置いていった」


アポロンは紙を折った。


「どうする?」


「店に置いておけばいいんじゃないか」


「うん」


小さな紙を、レジの横に置く。


それだけだった。


仕事が始まる。


昼頃。


昨日とは別の客が来た。


料理を運ぶ。


会計をする。


帰り際。


その客が振り返った。


「美味しかったです」


「ありがとうございます」


客はそのまま店を出た。


アポロンは入口を見る。


たった一言。


それだけだった。


けれど。


その言葉は、しばらく耳に残った。


午後。


佐藤が皿を洗っている。


「さっきのお客さん、何か言ってました?」


「美味しかったと言っていた」


「それだけ?」


「うん」


「それ、嬉しいですよね」


アポロンは少し考えた。


「そうだな」


「毎回言われるわけじゃないですけど」


「だから?」


「言われた時は、ちょっと嬉しい」


アポロンは頷いた。


神だった頃。


人間から届く言葉は、数え切れないほどあった。


祈り。


願い。


感謝。


嘆き。


怒り。


けれど。


それらはすべて、自分のところへ届くものだった。


今は違う。


たった一人の客から。


たった一言。


「美味しかったです」


それだけの言葉が届く。


そして。


自分の中に残る。


夕方。


店が落ち着いた頃。


健一が言った。


「アポロン」


「何?」


「今日、助かったよ」


「何が?」


「忙しい時に、よく動いてくれたから」


アポロンは少し黙った。


「ありがとう」


「こっちが言ってるんだけど」


「分かっている」


健一が笑う。


「変なやつだな」


「そうかもしれない」


仕事が終わる。


帰り道。


駅のホームで電車を待つ。


隣に知らない男性が立っていた。


スマートフォンを見ている。


突然、男性が小さく呟いた。


「よかった……」


電話を切ったところだった。


アポロンは、その言葉を聞いた。


以前なら。


何があったのかを知ることができた。


けれど。


今は知らない。


男性は何も説明しない。


アポロンも聞かなかった。


電車が来る。


男性は乗っていく。


アポロンは別の車両に乗った。


家に帰る。


「おかえり」


「ただいま」


美咲が夕食を作っていた。


「今日はどうだった?」


「いろんな人から言葉をもらった」


「どんな?」


「ありがとう、とか、美味しかった、とか」


「いい日だったね」


アポロンは頷いた。


「うん」


夕食のあと。


昨日の本を開く。


少し読む。


物語の中の人物が、誰かに一言を伝える。


たった一言。


けれど。


その言葉で、相手の行動が少し変わる。


アポロンはページをめくる手を止めた。


言葉は。


何かを変える力を持っている。


神の力とは違う。


世界を止めることも。


時間を戻すことも。


命を作ることもできない。


それでも。


「ありがとう」


「美味しかった」


「また来ます」


そんな短い言葉が。


人と人の間に残っていく。


アポロンは本を閉じた。


そして。


今日聞いた言葉を、いくつか思い出した。


すべてを覚えている。


けれど。


覚えていることと、大切にすることは同じではない。


今のアポロンには。


その違いが、少しだけ分かる気がした。


窓の外を見る。


誰かが歩いている。


誰なのかは分からない。


どこへ行くのかも分からない。


それでも。


その人にも、今日聞いた言葉や、誰かに伝えた言葉があるのかもしれない。


アポロンは本を机の上に置いた。


明日。


また誰かと話すだろう。


何を言われるかは、分からない。


何を言うことになるのかも。


だから。


少しだけ楽しみにしておくことにした。

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