第九章 知らない名前
休日が終わった。
翌朝。
アポロンは、昨日より少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
時計を見る。
午前六時。
「……早いな」
昨日までなら、時間など気にしなかった。
今は違う。
仕事がある。
それだけで、朝の意味が変わっていた。
顔を洗う。
服を着る。
財布を確認する。
スマートフォンを確認する。
そして、家を出る。
玄関を閉めたところで、アポロンは立ち止まった。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、そう言った。
自分でも少し不思議だった。
だが。
人間は、出かける時にそう言うらしい。
だから言ってみた。
駅へ向かう。
朝の街には、昨日とは違う人々がいた。
スーツを着た人。
制服を着た学生。
自転車に乗る人。
眠そうな顔をした人。
誰もが同じ方向へ進んでいる。
駅に着くと、人が増えた。
アポロンは改札の前で立ち止まる。
「……多いな」
昨日の休日とは、まるで違う。
人間たちは、誰に命令されるでもなく、決まった時間に駅へ集まってくる。
電車が来る。
扉が開く。
人が乗る。
扉が閉まる。
そして、電車が走り出す。
アポロンも乗った。
車内は混んでいた。
隣の人との距離が近い。
誰も話さない。
ほとんどの人がスマートフォンを見ている。
アポロンも自分のスマートフォンを見る。
昨日、美咲が撮った写真があった。
公園。
たい焼き。
そして、二人で写った写真。
アポロンはしばらくそれを見ていた。
「……」
電車が揺れる。
身体が少し傾く。
その時。
前に立っていた老人が、足をふらつかせた。
アポロンは手を伸ばした。
老人の身体が倒れる前に、支える。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません」
老人は手すりを握った。
「ありがとうございます」
「気をつけて」
老人は小さく頭を下げた。
アポロンも頷いた。
それだけだった。
電車は何事もなかったように走り続ける。
次の駅で、老人は降りていった。
その背中を見送りながら、アポロンは思った。
昨日、子どもを助けた。
今日は老人を支えた。
どちらも大きなことではない。
世界が変わるわけでもない。
誰かに称賛されるわけでもない。
それでも。
「ありがとう」と言われると。
少し嬉しい。
それが不思議だった。
職場に着く。
店主がすでに準備をしていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
アポロンも頭を下げる。
「今日もお願いします」
「はい」
仕事が始まる。
皿を洗う。
料理を運ぶ。
注文を取る。
昨日より少しだけ慣れている。
「アポロンさん、それ持っていって」
「分かった」
「そっちは違うテーブルです」
「……そうか」
「大丈夫です。最初はみんな間違えます」
「なるほど」
少しずつ。
仕事の流れが分かってくる。
そして昼。
店が一番忙しくなった。
注文が重なる。
厨房から料理が出てくる。
客が呼ぶ。
電話が鳴る。
店主が忙しそうに動く。
アポロンはその様子を見ていた。
「アポロンさん!」
「何だ?」
「そこの注文、先にお願いします!」
「分かった」
料理を運ぶ。
戻る。
次の料理を受け取る。
また運ぶ。
その繰り返し。
いつの間にか、身体が動いていた。
忙しい。
だが。
嫌ではなかった。
むしろ。
少し楽しい。
自分の動きが、店の流れの一部になっている。
それが分かるからだ。
昼休み。
店主が水を出してくれた。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
アポロンは水を飲む。
そして、店主に聞いた。
「名前を聞いてもいいか?」
「俺ですか?」
「ああ」
「健一です」
「健一」
アポロンはその名前を覚えた。
「健一」
「はい」
「覚えた」
健一は笑った。
「名前くらい覚えてくださいよ」
「人間の名前は多い」
「まあ、確かに」
「だが、覚えるのは悪くない」
「どうして?」
アポロンは少し考えた。
「名前が分かると、その人が一人の人間になる」
健一は黙った。
アポロンは続けた。
「昨日まで、私はあなたを店主と呼んでいた」
「そうですね」
「今日は健一と呼べる」
「……それだけですか?」
「ああ」
それだけだった。
しかし。
アポロンにとっては、大きな違いだった。
神だった頃。
人間は数だった。
何人いるか。
どこにいるか。
何をしているか。
それで十分だった。
今は違う。
健一。
美咲。
一人ずつ名前がある。
一人ずつ生活がある。
一人ずつ、明日がある。
「アポロンさん」
「何だ?」
「あなたの名前も、変わった名前ですよね」
「そうか?」
「外国人だからですか?」
「そうだ」
アポロンは答えた。
本当のことを言えば。
アポロンという名前は、人間が作ったものではない。
この世界で、最初にその名を持った存在だった。
だが。
今はそれを説明する必要はない。
健一は笑った。
「じゃあ、アポロンさんも頑張ってください」
「分かった」
仕事が終わる。
外へ出る。
夕方の空は、昨日より少し赤かった。
アポロンはスマートフォンを取り出した。
美咲からメッセージが届いている。
『今日も仕事、お疲れさまでした』
アポロンはしばらく画面を見ていた。
そして。
『ありがとう』
と入力した。
少し考える。
もう一行追加する。
『今日は、健一という名前を覚えた。』
送信する。
すぐに返信が来た。
『それはよかったですね』
アポロンは画面を見ながら笑った。
名前を一つ覚えた。
たったそれだけのことだった。
けれど。
世界が少しだけ近くなったような気がした。
神だった頃。
彼は世界のすべてを知っていた。
だが。
すべてを知っていることと。
誰かを知ることは。
同じではなかった。
アポロンは歩きながら、昨日撮った写真をもう一度開いた。
写真の中で、美咲が笑っている。
そして。
その隣で、自分も笑っている。
いつの間にか。
その写真を開くことが、少し楽しみになっていた。
「……人間は」
アポロンは小さく呟いた。
「こういうものを大切にするのか」
答える人はいなかった。
それでも。
アポロンは、もう一度写真を見た。
そしてスマートフォンをしまう。
明日はまた仕事がある。
その次の日も。
その次も。
それを考えると。
なぜか、少しだけ安心した。




