第十章 小さな約束
仕事を始めてから、一週間が過ぎた。
アポロンにとって、一週間という時間は短かった。
神だった頃なら、一週間など一瞬だった。
だが、人間になってからは違った。
朝起きる。
仕事へ行く。
働く。
昼に食事をする。
夕方に仕事を終える。
家へ帰る。
そして眠る。
同じような一日が、少しずつ積み重なっていく。
その繰り返しが。
アポロンには、思っていたより嫌ではなかった。
むしろ。
少し好きになっていた。
「おはようございます」
店に入ると、健一が顔を上げた。
「おはよう、アポロンさん」
「今日は早いな」
「店主だからね」
「そうか」
アポロンはエプロンを着ける。
「今日もお願いします」
「こちらこそ」
仕事が始まる。
皿を洗う。
料理を運ぶ。
注文を取る。
最近では、言われなくてもできる仕事が増えてきた。
客が帰れば皿を下げる。
水が少なくなれば補充する。
厨房が忙しければ、できる範囲で手伝う。
最初は一つ一つ考えていた。
今は、身体が自然に動く。
昼過ぎ。
店が少し落ち着いた。
健一がカウンターの椅子に座る。
「アポロンさん」
「何だ?」
「仕事、慣れました?」
「少し」
「最初はどうなるかと思いましたよ」
「なぜ?」
「何も知らなかったから」
アポロンは少し考えた。
「今も知らないことは多い」
「でも、だいぶ普通になりましたよ」
「普通?」
「はい」
アポロンはその言葉を聞いて、少し笑った。
「それは、いいことなのか?」
「いいことだと思いますよ」
「そうか」
健一は水を飲んだ。
「ところで、アポロンさん」
「何だ?」
「来週も働けます?」
アポロンは少し驚いた。
「来週?」
「はい」
「働きたい」
「じゃあ、お願いします」
「分かった」
それだけの会話だった。
けれど。
アポロンは、その言葉を心の中でもう一度繰り返した。
来週も働く。
来週がある。
そして。
自分がそこにいる。
それは当たり前のことのようで。
少し不思議だった。
仕事が終わる。
店を出ると、美咲が駅前で待っていた。
「お疲れさまです」
「美咲もお疲れさま」
「今日はどうでした?」
「来週も働くことになった」
「本当ですか?」
「ああ」
「よかったですね」
美咲が笑う。
アポロンも笑った。
二人は駅の近くを歩いた。
「今日は何を食べます?」
美咲が聞く。
アポロンは少し考えた。
「ラーメン」
「また?」
「ああ」
「好きになったんですね」
「そうらしい」
「じゃあ、行きましょう」
二人は最初に一緒に行った店へ向かった。
店に入る。
「いらっしゃいませ」
アポロンは席に座る。
メニューを見る。
以前は、何を選べばいいのか分からなかった。
今は違う。
「今日はこれにする」
「何ですか?」
「味噌ラーメン」
「前は醤油でしたよね」
「今日は味噌だ」
「じゃあ、私は醤油にします」
注文を終える。
しばらくして、料理が運ばれてくる。
湯気が立つ。
アポロンは箸を持った。
もう、迷わない。
麺をすくう。
食べる。
「……美味しい」
美咲が笑う。
「最初の日より、ずいぶん慣れましたね」
「そうだな」
アポロンはラーメンを食べながら、ふと思った。
最初の日。
美咲と出会った。
その時は、何も持っていなかった。
金も。
家も。
仕事も。
スマートフォンも。
そして。
人間としての生活も。
今は違う。
財布がある。
スマートフォンがある。
働く場所がある。
明日がある。
それから。
一緒に食事をする人もいる。
「美咲」
「はい?」
「人間には、約束というものがあるな」
「ありますね」
「来週も働くという約束をした」
「そうですね」
「またここで食事をするという約束もできる」
美咲は少し笑った。
「じゃあ、また来ます?」
「来たい」
その言葉を言ったあと。
アポロンは少し黙った。
「……今のは、約束か?」
「そうかもしれませんね」
「では」
アポロンは美咲を見る。
「また一緒に食べよう」
「はい」
美咲は頷いた。
たった一言。
それだけだった。
けれど。
アポロンには、その言葉が妙に大切に思えた。
神だった頃。
約束など必要なかった。
彼が望めば、世界はその通りになる。
未来も。
結果も。
すべて確定していた。
約束とは、本来。
未来が分からない者同士が交わすものなのだろう。
「また会う」
その未来は、まだ確定していない。
だからこそ。
約束する。
アポロンは、その意味を少しだけ理解した。
店を出る。
夜の街を歩く。
駅へ向かう人々。
コンビニから出てくる人。
自転車を押して歩く人。
いつもの街。
いつもの夜。
けれど。
アポロンには、少し違って見えた。
「明日も仕事だ」
「はい」
「その次の日も」
「はい」
「来週も」
「そうですね」
アポロンは空を見上げた。
星は少ししか見えない。
街の明かりが強いからだ。
神だった頃なら、すべての星を知っていた。
今は。
そのうちのいくつかしか見えない。
それでも。
十分だった。
「美咲」
「はい?」
「人間の生活は、不便だな」
「そうですね」
「知らないことが多い」
「そうですね」
「身体も疲れる」
「そうですね」
「金も必要だ」
「はい」
アポロンは少し考えた。
「それでも」
美咲を見る。
「悪くない」
美咲は何も言わなかった。
ただ、笑った。
二人は駅へ向かって歩いていく。
その夜。
アポロンは初めて。
自分から「来週」という未来を楽しみにしていた。




