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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第十一章 知らない雨

その週の終わり。


朝から雨が降っていた。


アポロンは玄関を出る前に、窓の外を見た。


細い雨だった。


「傘……」


一瞬、考える。


そして、傘を手に取った。


人間になってから、雨の日には傘が必要だと分かった。


濡れる。


服が重くなる。


身体が冷える。


風邪をひく。


それらはすべて、もう知っている。


だから傘を持つ。


駅へ向かう途中、アポロンは立ち止まった。


道路の向こう側に、美咲がいた。


透明な傘を差している。


「アポロンさん!」


美咲が手を振った。


アポロンも手を上げる。


「おはよう」


「おはようございます」


二人は信号を渡り、駅まで一緒に歩いた。


「今日は雨ですね」


「そうだな」


「嫌じゃないですか?」


アポロンは空を見上げた。


「以前は嫌だった」


「以前?」


「最初の日だ」


美咲は少し笑った。


「そういえば、初めて会った日も雨でしたね」


「ああ」


アポロンは覚えていた。


冷たかった雨。


濡れた服。


そして。


透明な傘。


「最初の日は、雨が嫌だった」


「今は?」


アポロンは少し考えた。


「今は……」


雨音を聞く。


傘に雨粒が当たる。


一定のリズム。


街の音が少し遠くなる。


「悪くない」


美咲が笑った。


「またそれですね」


「ああ」


駅に着く。


人が多い。


雨の日は、いつもより少しだけ歩きにくい。


電車が来る。


二人は乗り込んだ。


その時。


アポロンは、ふと窓の外を見た。


駅の屋根の下。


小さな女の子が一人で立っている。


泣いていた。


「どうしたんだろう」


「迷子かな?」


美咲もそちらを見る。


駅員が近づいていく。


「大丈夫?」


女の子は首を横に振る。


「お母さんが……」


声が震えている。


アポロンは黙って見ていた。


電車の扉が閉まり始める。


美咲が言った。


「大丈夫かな」


アポロンは女の子を見た。


そして。


「大丈夫だ」


「どうして分かるんです?」


「駅員がいる」


美咲は少し驚いた。


「……そうですね」


電車が動き出す。


女の子の姿が遠ざかっていく。


アポロンは最後まで見ていた。


「助けなくていいの?」


美咲が聞いた。


「もう、助ける人がいる」


「……なるほど」


アポロンは窓の外を見ながら言った。


「以前なら、私が直接助けていた」


「今は違う?」


「ああ」


「どうして?」


「人間には、人間の力がある」


美咲は何も言わなかった。


電車が次の駅へ向かう。


アポロンは考えていた。


神だった頃。


人間の問題は、神が解決するものだと思っていた。


危険があれば守る。


災害があれば止める。


争いがあれば終わらせる。


それが最も早く。


最も確実だった。


だが。


人間になってから、少し分かってきた。


人間は。


自分で誰かを助ける。


誰かに助けられる。


そして。


その経験を次の誰かへ渡していく。


それは。


神にはないものだった。


仕事を終えた夕方。


雨はまだ降っていた。


アポロンが店を出ると、美咲から連絡が来た。


『まだ雨ですね』


『ああ』


『傘、持っていますか?』


アポロンは自分の傘を見た。


『持っている』


少し考える。


『今日は濡れていない』


すぐに返信が来た。


『成長しましたね』


アポロンはその文章を見て笑った。


『人間になって十一日目だからな』


『もう十一日なんですね』


アポロンは画面を見つめた。


十一日。


短い。


けれど。


その十一日の中に、たくさんのことがあった。


初めて雨に濡れた。


初めて食事をした。


初めて働いた。


初めて給料をもらった。


初めて誰かと約束した。


初めて写真を撮った。


そして。


初めて、自分の明日を考えた。


雨の中を歩く。


アポロンは傘を少し傾けた。


雨粒が道路に落ちている。


その一つ一つに意味はない。


けれど。


その雨が、街を少し静かにしている。


店の明かりが濡れた道路に映る。


車が通る。


傘を差した人が歩く。


誰かがコンビニへ入る。


誰かが家へ帰る。


いつもの夜。


アポロンは歩きながら、ふと思った。


人間は。


何でもない一日を生きている。


大きな出来事がなくても。


誰かと話し。


食事をし。


働き。


帰る。


そして眠る。


また朝になる。


それだけだ。


なのに。


なぜか。


その一日が、少し惜しく感じられる。


「……明日も晴れるかな」


アポロンは空を見上げた。


その瞬間。


彼には、明日の天気が分かった。


晴れる。


確定している。


本来なら。


それで終わりだった。


だが。


アポロンは少し考えた。


そして、スマートフォンを取り出した。


美咲に送る。


『明日は晴れるらしい』


しばらくして。


『じゃあ、よかったですね』


返信が来た。


アポロンは画面を見つめた。


「……そうか」


明日の天気を知っている。


それでも。


明日が来るのを待つ。


そのことが。


以前より少しだけ、楽しく感じられた。

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