第十二章 自分のお金
翌日の朝。
アポロンは、財布を開いていた。
中には、数枚の紙幣と硬貨が入っている。
昨日までなら、それを見ても特別な感情は持たなかっただろう。
お金。
人間が物を交換するために使うもの。
それ以上でも、それ以下でもない。
神だった頃のアポロンにとって、お金は必要なかった。
食べ物も、水も、家も、服も。
必要だと思えば、世界に存在させることができた。
けれど、今は違う。
このお金は、自分が働いて得たものだった。
皿を洗って。
料理を運んで。
店の床を掃除して。
疲れて。
それらを積み重ねた時間が、この紙と硬貨になっている。
アポロンは、しばらく財布を見つめた。
「……不思議だな」
「何が?」
背後から声がした。
振り返ると、美咲が立っていた。
「お金を見ている」
「そうだ」
「何か買いたいものでもあるの?」
「まだ決めていない」
美咲は少し笑った。
「じゃあ、今日は何か買ってみたら?」
「必要なものは、だいたい揃っている」
「必要じゃなくてもいいんじゃない?」
「必要ではないものを買うのか?」
「うん」
アポロンは考えた。
「それは、合理的ではないな」
「人間って、いつも合理的に生きてるわけじゃないから」
その言葉に、アポロンは黙った。
合理的ではない。
それは、彼が人間を観察していた頃から知っていた。
しかし、知っていることと、自分で行うことは違う。
「……分かった」
アポロンは財布を閉じた。
「今日は、必要ではないものを買ってみる」
「うん。頑張って」
美咲はそう言って、笑った。
その笑顔を見てから、アポロンは家を出た。
駅へ向かう途中。
アポロンは、何軒もの店を眺めた。
コンビニ。
書店。
服屋。
小さな雑貨店。
どこに入っても、物が並んでいる。
しかし、欲しいものは見つからなかった。
「必要ではないもの……」
考えながら歩いていると、駅前の自動販売機が目に入った。
最初の日に見たものだった。
あの日は、美咲に買ってもらった。
今日は違う。
アポロンは財布から硬貨を取り出した。
そして、自分でボタンを押した。
ガコン。
缶が落ちる。
取り出して、手に取る。
温かい。
「……これだ」
特別な飲み物ではない。
ただの温かいコーヒーだった。
けれど、アポロンは少し嬉しかった。
初めて自分で買ったものだった。
仕事が終わったあと。
アポロンは、もう一度財布を開いた。
まだお金は残っている。
そのまま帰ろうとして、足を止めた。
店の前に、小さなケーキ屋があった。
ガラス越しに、いくつかのケーキが並んでいる。
アポロンは立ち止まった。
ケーキを食べたいわけではない。
正確には、自分一人で食べたいわけではなかった。
「……美咲は、甘いものを食べるだろうか」
知らない。
だから、少しだけ迷った。
神だった頃なら、そんなことを考える必要はなかった。
知ればいい。
世界中の記憶を見ればいい。
けれど、今は聞かなければ分からない。
アポロンは店に入った。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
アポロンはショーケースを眺めた。
「これを二つ」
「こちらですね?」
「はい」
会計を済ませる。
袋を受け取る。
それだけだった。
けれど、店を出たアポロンは、なぜか少しだけ緊張していた。
家に戻る。
美咲はテーブルでスマートフォンを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
アポロンは袋をテーブルの上に置いた。
「これは?」
「買ってきた」
「ケーキ?」
「そうだ」
美咲が袋を開ける。
「どうしたの?」
「分からない」
「分からない?」
「食べたいと思った」
美咲は笑った。
「アポロンが?」
「いや」
アポロンは少し考えた。
「……君と食べたいと思った」
美咲の手が止まった。
「そっか」
小さく笑う。
「じゃあ、食べようか」
「うん」
二人でケーキを食べた。
特別な日ではない。
誕生日でもない。
記念日でもない。
何かを祝う理由もない。
ただ、アポロンが自分のお金で買ってきたケーキを、二人で食べているだけだった。
「美味しいね」
美咲が言った。
アポロンも頷いた。
「美味しい」
そして、少し考えてから言った。
「……自分で作ったものではないのに、自分で得たものを使って誰かと食べると、少し違うな」
「何が?」
「嬉しい」
美咲は何も言わなかった。
ただ、笑っていた。
その夜。
アポロンは布団の中で目を閉じた。
今日も、知らないことが一つ増えた。
お金は、物を買うためだけのものではない。
自分が働いた時間を、別の誰かと分けることもできる。
そんなことを考えながら、アポロンは眠りについた。
神だった頃には、一度も必要としなかった眠りだった。
そして明日の朝。
また目を覚ます。
明日、何をするのか。
それはまだ決まっていない。
アポロンは、そのことを少し楽しみにしていた。




