第十三章 分からないということ
その日の朝。
アポロンは、いつもより少し早く目を覚ました。
時計を見る。
まだ、美咲が起きる時間には早い。
アポロンは布団の中でしばらく天井を見ていた。
眠る必要がなくても、眠ることができる。
それにも少しずつ慣れてきた。
しかし、今日はなぜか眠れなかった。
理由は分からない。
いや。
正確には、一つだけ思い当たることがあった。
昨日の夜。
美咲が、少し疲れているように見えた。
いつもより口数が少なかった。
それだけだった。
具合が悪いとは言っていない。
困っているとも言っていない。
だから、アポロンは何も聞かなかった。
けれど。
「……大丈夫だろうか」
口に出してから、アポロンは少し驚いた。
大丈夫かどうか。
本来なら、すぐに分かる。
世界に存在するものなら、何でも知ることができる。
人間の身体の状態も。
心の動きも。
過去も。
これから起こることも。
けれど、今のアポロンには、それを確かめなかった。
なぜか。
自分でも、よく分からなかった。
キッチンへ行く。
美咲はまだ起きていなかった。
アポロンは冷蔵庫を開けた。
昨日買ったものを確認する。
特に問題はない。
朝食を作ろうと思った。
しかし、何を作ればいいのか分からない。
「……人間は、難しいな」
小さく呟いた。
しばらくして、美咲が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「早いね」
「眠れなかった」
「珍しいね」
美咲はそう言って、椅子に座った。
アポロンは彼女の顔を見る。
昨日と同じように見える。
けれど、少しだけ目の下が疲れている。
「美咲」
「うん?」
「昨日、何かあったのか?」
美咲は少し考えた。
「ううん。特に何も」
「本当に?」
「うん」
アポロンは黙った。
分からない。
美咲が本当に何もないと思っているのか。
それとも、言いたくないだけなのか。
神だった頃なら、こんな曖昧な状態は存在しなかった。
答えは一つだった。
だが、人間の世界では。
同じ言葉の中に、いくつもの意味がある。
「……そうか」
それ以上、聞かなかった。
美咲は少しだけ笑った。
「心配してくれたの?」
「分からない」
「何それ」
「心配という感情を、まだ完全には理解していない」
美咲は少し笑ってから言った。
「じゃあ、たぶん心配してたんじゃない?」
アポロンは考えた。
そして、頷いた。
「そうかもしれない」
「ありがとう」
その一言を聞いた瞬間。
アポロンの胸の奥が、少しだけ温かくなった。
仕事へ向かう道。
アポロンは一人で歩いていた。
昨日までなら、分からないことがあると、それを知ろうとした。
今も知りたい。
しかし。
全部を知ってしまえばいいとは、思わなくなっていた。
美咲が何を考えているのか。
明日、何が起こるのか。
誰が自分を好きなのか。
誰が自分を嫌っているのか。
すべてを知ってしまえば、確かに迷わなくなる。
けれど。
迷わないことと、安心することは同じではない。
そのことを、アポロンは少しずつ理解し始めていた。
店に着く。
「おはようございます」
健一が厨房から顔を出した。
「おう。今日は早いな」
「少し早く起きた」
「珍しいな」
健一は笑った。
「昨日、何かあったか?」
アポロンは少し考えた。
「心配事がある」
「お前が?」
「そうだ」
健一は意外そうな顔をした。
「まあ、人間ならあるだろ」
「人間なら?」
「誰かのことを考えすぎることもあるってことだよ」
アポロンはその言葉を聞いて、少し黙った。
誰かのことを考えすぎる。
それは、神だった頃の自分にはなかった感覚だった。
昼休み。
スマートフォンを見る。
美咲からメッセージが届いていた。
『今日は少し早く帰るね』
短い文章だった。
アポロンは画面を見つめる。
それだけなのに、少し安心した。
『分かった』
そう返信する。
そして、少し考えてから、もう一度入力した。
『気をつけて帰ってきて』
送信する。
数秒後。
『ありがとう』
返信が来た。
アポロンはスマートフォンを閉じた。
午後の仕事は、いつも通りだった。
皿を洗う。
料理を運ぶ。
客の注文を聞く。
何も特別なことは起こらなかった。
それでも。
アポロンは、昨日までとは少し違う気持ちで仕事をしていた。
誰かが無事に帰ってくる。
ただそれだけのことを、待つ。
それも、人間の時間なのかもしれない。
仕事が終わる。
外へ出る。
空は少し曇っていた。
アポロンは空を見上げた。
明日の天気なら、もう知っている。
けれど。
今日、美咲がどんな顔で帰ってくるのかは知らない。
アポロンは、そのことを考えて少し笑った。
「……知らないというのも、悪くないな」
そう呟いて、駅へ向かって歩き始めた。




