第十四章 待つ時間
仕事が終わった。
アポロンは、駅へ向かって歩いていた。
今日は、いつもより少しだけ歩く速度が遅かった。
理由は分かっている。
美咲が、今日は少し早く帰ると言っていた。
ただ、それだけだった。
約束をしたわけではない。
何時に帰るとも聞いていない。
だから、アポロンが急ぐ理由もない。
それでも。
駅に着くと、自然とスマートフォンを見てしまった。
新しいメッセージはない。
アポロンは画面を閉じた。
そして、また開いた。
何もない。
もう一度閉じる。
「……なぜ確認しているんだ」
自分でも分からなかった。
駅のベンチに座る。
人が行き交っている。
電車が到着する。
人が降りる。
また人が乗る。
それを何度か繰り返しているうちに、時間だけが過ぎていく。
アポロンは時計を見た。
美咲が帰ると言った時間から、まだそれほど経っていない。
それなのに。
長く感じた。
「待つというのは……こういうことなのか」
神だった頃。
アポロンは、何かを待つ必要がなかった。
未来を知っていたからだ。
必要なら、未来を直接変えることもできた。
結果を待つ意味がなかった。
けれど今。
美咲がいつ帰ってくるのか。
どんな顔をしているのか。
何を考えているのか。
何も分からない。
分からないから、待つ。
その時間が、妙に長く感じられる。
スマートフォンが震えた。
アポロンはすぐに画面を見る。
『今、駅に着いたよ』
美咲からだった。
アポロンは立ち上がった。
そして、少し考えてから返信する。
『分かった』
短い。
それだけなのに、胸の奥が軽くなった。
駅の改札を見る。
人の流れの中に、美咲の姿が見えた。
「アポロン?」
「おかえり」
「ただいま」
美咲は少し笑った。
「待ってたの?」
「……うん」
「どのくらい?」
アポロンは時計を見た。
「二十三分」
「ちゃんと数えてたんだ」
「時計を見ていた」
美咲は笑った。
「ありがとう」
「なぜ?」
「待っててくれたから」
アポロンは少し黙った。
「待つことは、何かをすることではないと思っていた」
「うん」
「でも、今日は違った」
「どう違ったの?」
アポロンは答えを探した。
「君が来るまで、何も起こらないと思っていた」
「うん」
「けれど、何も起こらない時間にも、感情があった」
美咲はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「それが、待つってことじゃないかな」
アポロンは頷いた。
二人で駅を出る。
夕方の街には、仕事を終えた人たちが歩いている。
コンビニの明かりがついている。
信号が変わる。
車が走る。
どこにでもある、一日の終わりだった。
「夕飯、どうする?」
美咲が聞いた。
アポロンは少し考えた。
「ラーメン」
「また?」
「今日は味噌がいい」
「この前も味噌だったよ」
「知っている」
「じゃあ、好きなんだね」
アポロンは少し笑った。
「そうらしい」
二人は並んで歩いた。
その夜。
食事を終えて家に戻る。
アポロンは布団に入った。
今日、特別なことは何もなかった。
仕事をして。
駅で待って。
美咲と夕食を食べた。
それだけだった。
けれど。
アポロンにとっては、一つ大きなことを知った日だった。
未来を知っている者には、待つ必要がない。
しかし。
未来を知らない者には、待つ時間そのものに意味がある。
アポロンは目を閉じた。
明日のことは、すべて知っている。
それでも。
明日になるまで、眠る。
それが少しだけ楽しみだった。




