第八十六章 途中の景色
朝。
アポロンはいつもの電車に乗った。
席は空いていなかった。
いつもなら、立ったままスマートフォンを見る。
けれど今日は、画面を開かなかった。
窓の外を見る。
建物。
道路。
小さな公園。
コンビニ。
知らない人の家。
何度も見ている景色なのに、今日は少し違って見えた。
「この辺、こんな店あったんだ」
隣にいた美咲が窓の外を見る。
「新しい店?」
「たぶん」
「帰りに見てみる?」
「うん」
電車が次の駅に止まる。
人が降りる。
また人が乗ってくる。
アポロンは、乗ってくる人たちを見ていた。
誰もがそれぞれの目的地を持っている。
仕事へ行く人。
学校へ行く人。
買い物へ行く人。
誰かに会いに行く人。
誰にも会わずに帰る人。
神だった頃。
アポロンは、世界中の人間を一つの流れとして見ていた。
一人一人の人生も知っていた。
けれど今は。
目の前の一人が、どこへ行くのか分からない。
それが少し面白かった。
仕事が終わった。
帰り道。
朝に見つけた店の前を通る。
小さな文房具店だった。
美咲が立ち止まる。
「入ってみる?」
「うん」
店内には、ノートやペン、封筒、便箋が並んでいた。
アポロンは棚を見て歩く。
一冊のノートを手に取った。
表紙は白い。
中は何も書かれていない。
「何に使うの?」
美咲が聞く。
「分からない」
「じゃあ、まだ買わなくてもいいんじゃない?」
アポロンはノートを戻した。
少し歩く。
そして、もう一度戻ってくる。
「やっぱり買う」
「何を書くの?」
「これから決める」
「そういうのもいいね」
レジで会計をする。
店を出る。
ノートはまだ何も書かれていない。
家に帰る。
夕食を終えたあと。
アポロンは机に向かった。
白いノートを開く。
最初のページ。
ペンを持つ。
何を書くか考える。
思いつかない。
そのまま数分が過ぎる。
美咲が横から見る。
「何も書いてないね」
「うん」
「買った意味ある?」
「今は分からない」
「じゃあ、いつか分かるかもね」
アポロンは頷いた。
ペン先を紙に置く。
そして、最初の一行を書いた。
『今日は、何も書くことがなかった。』
美咲が笑う。
「それ、書くことなの?」
「書いたから、書くことになった」
「変なの」
アポロンも少し笑った。
ノートを閉じる。
一ページしか使っていない。
けれど。
それで十分だった。
神だった頃。
アポロンは、世界の始まりから終わりまで知っていた。
空白はなかった。
何も知らない場所など存在しなかった。
けれど今。
白いページが一枚ある。
何を書くのか。
いつ書くのか。
そもそも、次に書くのか。
それすら決まっていない。
アポロンは、その白いページをしばらく眺めた。
空白は。
何もないことではない。
まだ何も決まっていないということだ。
そして。
決まっていないものは、自分で決めることができる。
あるいは。
決めないままでもいい。
アポロンはノートを机の引き出しにしまった。
明日、何を書くかは決めなかった。
そのまま、眠ることにした。




