第八十五章 置いていくもの
朝。
アポロンは玄関で靴を履いていた。
美咲が後ろから声をかける。
「アポロン」
「何?」
「今日、帰りに牛乳お願いしてもいい?」
「分かった」
「忘れないでね」
「大丈夫」
玄関を出る。
駅へ向かう途中、アポロンはポケットを確認した。
財布。
スマートフォン。
鍵。
そして、昨日返した手袋。
もちろん、手袋はない。
「……」
少しだけ可笑しくなった。
もう返したものなのだから、持っているはずがない。
駅に着く。
電車に乗る。
窓の外を眺めていると、向かいの席に座っていた男が立ち上がった。
その直後。
座席に小さな袋が残っている。
アポロンは袋を見た。
昨日の写真のことを思い出す。
「忘れ物だ」
手に取ろうとした。
しかし。
男が数歩先で振り返った。
「あっ」
戻ってきた。
「すみません、それ僕のです」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男は袋を受け取った。
そして、そのまま電車を降りていった。
アポロンは座席を見る。
何も残っていない。
ほんの数秒の出来事だった。
けれど。
以前なら、こんなことを気にすることもなかった。
人が何を忘れるのか。
何を取りに戻るのか。
そんなことまで、すべて知っていたからだ。
今は違う。
忘れた。
気づいた。
戻った。
それだけのことが、目の前で起きる。
そして、それを見ている。
それだけだった。
店に着く。
午前中は忙しかった。
注文が重なり、厨房と客席を何度も往復する。
昼を過ぎると、少し落ち着いた。
アポロンは水を飲む。
その時、佐藤が棚の奥から何かを取り出していた。
「何してる?」
「探し物です」
「見つかった?」
「まだです」
「何を探している?」
「充電器」
「ここにはないかもしれない」
「そうかもしれません」
佐藤は棚を一つずつ確認していく。
アポロンも少し手伝った。
箱を動かす。
袋を開ける。
古い道具を横へ移す。
しばらくして。
「ありました」
佐藤が小さな充電器を持ち上げた。
「ここにあったんだ」
「よかったな」
「はい」
佐藤は笑った。
アポロンはその様子を見ていた。
探していたものが見つかる。
それだけのことなのに。
佐藤は少し嬉しそうだった。
「何か変ですか?」
「いや」
「じゃあ、何ですか?」
「見つかると嬉しいんだなと思った」
「そりゃ嬉しいですよ」
「そうか」
佐藤は充電器をポケットに入れた。
「アポロンさんも、探し物とかします?」
「する」
「意外ですね」
「どうして?」
「何でも知ってそうだから」
アポロンは一瞬、黙った。
佐藤は冗談のつもりだった。
「……昔は、そうだったかもしれない」
「昔?」
「何でもない」
佐藤は深く聞かなかった。
「じゃあ、仕事戻ります」
「うん」
午後。
アポロンは倉庫の整理をしていた。
箱を一つ動かす。
その下から、古いメモが出てきた。
紙は少し黄ばんでいる。
何が書いてあるのか分からない。
日付だけが残っていた。
十年前。
アポロンは紙を見つめた。
十年前。
その頃、自分は何をしていたのか。
答えは簡単だった。
世界を見ていた。
すべてを知っていた。
人間が生まれ。
働き。
笑い。
泣き。
誰かを愛し。
誰かと別れる。
そのすべてを。
けれど。
この小さな紙に書かれた文字が、誰のものなのか。
今のアポロンには分からない。
紙を捨てようとして。
手を止めた。
「どうした?」
健一が来た。
「古いメモがあった」
「それなら、もういらないかもな」
「そうかもしれない」
アポロンは紙を箱の上に置いた。
捨てることはできなかった。
必要だからではない。
ただ。
そこに残っていたから。
仕事が終わる。
帰りにスーパーへ寄る。
美咲に頼まれた牛乳を買う。
そして、自分用に小さなパンを一つ買った。
家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
「牛乳」
「ありがとう」
美咲が受け取る。
アポロンはパンをテーブルに置いた。
「それ、何?」
「今日の分」
「明日のじゃなくて?」
「今日食べたい」
「じゃあ、今日食べよう」
二人でパンを分ける。
特別な味ではない。
けれど。
アポロンは思った。
人間は。
必要なものだけを持って生きているわけではない。
今日食べたいもの。
誰かからもらったもの。
返す必要のないもの。
いつか捨てるかもしれない古い紙。
もう会わないかもしれない人の記憶。
そういうものも、一緒に持っている。
すべてを残す必要はない。
すべてを捨てる必要もない。
その時、その時で。
自分がどうするかを決める。
アポロンはパンを一口食べた。
「美味しい?」
美咲が聞く。
「うん」
「よかった」
窓の外は暗くなっている。
今日という日は、もうすぐ終わる。
アポロンは、明日になれば今日のことを全部覚えている。
けれど。
人間は、全部を覚えている必要はない。
忘れていくものがある。
置いていくものがある。
それでも。
残るものもある。
アポロンは、空になったパンの袋をゴミ箱に入れた。
そして。
明日のために、テーブルの上を片付けた。




