第八十四章 誰かの席
昼過ぎ。
店が少し落ち着いた頃だった。
アポロンは空いたテーブルを拭いていた。
入口のドアが開く。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、年配の女性だった。
店内を見回している。
空いている席はいくつかある。
女性は少し迷ってから、窓際の席に座った。
「ご注文、お決まりになりましたらお声がけください」
アポロンがそう言うと、女性は頷いた。
「ありがとう」
しばらくして、女性はメニューを閉じた。
「すみません」
「はい」
「この席、空いてますか?」
アポロンは一瞬、意味が分からなかった。
女性が向かい側の椅子を見る。
「はい。空いています」
「よかった」
女性は小さく笑った。
アポロンは注文を受けて、厨房へ戻る。
料理を作っている健一に伝える。
「窓際のお客様、二人分ではなく一人分です」
「分かってる」
「向かいの席も使うのかと思った」
健一が笑った。
「一人で座ってるだけだろ」
「そうだな」
料理を運ぶ。
女性は一人で食べ始めた。
向かいの席には、誰もいない。
アポロンは仕事を続ける。
しばらくして、女性が窓の外を見ながら食事をしていることに気づいた。
特に何かをしているわけではない。
ただ、時々箸を止めて、外を見る。
食事を終えると、女性は会計を済ませた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
女性は立ち上がった。
そして、空いていた向かいの席を一度だけ見た。
そのまま店を出ていく。
アポロンは窓際のテーブルを片付けた。
椅子を戻す。
向かいの椅子も戻す。
その時。
椅子の上に、小さな紙袋が置かれているのを見つけた。
「忘れ物かな」
中を見る。
小さな写真が一枚入っていた。
古い写真だった。
若い男性と、その女性が並んで写っている。
アポロンは写真を見つめた。
すぐに店の外へ出る。
けれど、女性の姿はもう見えなかった。
追いかけようとはしなかった。
店に戻る。
写真を袋に戻す。
「健一さん」
「どうした?」
「忘れ物があった」
「名前は?」
「分からない」
「じゃあ、ここに置いておこう」
健一がレジの横を指差した。
「戻ってくるかもしれない」
「うん」
その日の仕事が終わるまで、女性は戻ってこなかった。
アポロンは写真の入った袋を見た。
「明日も来るかな」
「分からないな」
健一はそう言った。
アポロンは少し考えた。
以前なら。
女性が戻ってくるかどうかも。
何を考えているのかも。
写真に写っている男性が誰なのかも。
すべて知ることができた。
けれど。
今は分からない。
それでも。
知りたいとは思わなかった。
ただ、返したいと思った。
翌日の昼。
店のドアが開いた。
昨日の女性だった。
「すみません」
「はい」
アポロンはすぐに気づいた。
「これを忘れていましたよね」
紙袋を差し出す。
女性は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
女性は袋を開ける。
写真を確認して、小さく息を吐いた。
安心したようだった。
「大切なものですか?」
アポロンは聞いた。
女性は少しだけ考えた。
「はい」
それ以上は言わなかった。
アポロンも、それ以上聞かなかった。
女性は窓際の席に座った。
昨日と同じ席だった。
そして。
今日も向かい側には誰も座っていない。
食事を終えた女性が立ち上がる。
「また来ます」
「はい。お待ちしています」
女性は笑って店を出た。
アポロンはその背中を見送った。
昨日と同じ席。
昨日と同じ店。
けれど。
今日は、昨日とは違う。
アポロンは空いた椅子を見た。
そこには誰もいない。
それでも。
その席を、誰かのために空けておくことには意味があるのかもしれない。
夜。
家に帰ると、美咲が聞いた。
「今日はどうだった?」
「忘れ物を返した」
「何を?」
「写真」
「そうなんだ」
美咲はそれ以上聞かなかった。
アポロンは椅子に座る。
向かいには美咲がいる。
さっきまで空いていた席とは違う。
誰かが座っている。
それだけなのに。
部屋の感じが少し違う。
アポロンは美咲を見る。
「どうしたの?」
「いや」
少し間を置いて。
「ここにいてくれて、ありがとう」
美咲は少し驚いた。
そして、笑った。
「うん」
アポロンはそれ以上何も言わなかった。
空いている席があることと。
誰かが隣にいること。
その違いを、今日は少しだけ知った。




