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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第八十二章 返すということ

朝。


玄関を出る前に、アポロンは少し立ち止まった。


昨日、健一から借りた手袋。


片方はポケットに入っている。


もう片方は、昨日の仕事のあとに洗っていた。


まだ完全には乾いていない。


「どうしよう」


美咲が後ろから覗き込む。


「手袋?」


「うん。今日返す約束をした」


「乾いてないなら、明日でもいいんじゃない?」


アポロンは手袋を見た。


「そうだな」


けれど。


そのまま置いていくのも、少し気になった。


「乾くまで待つ」


「時間、大丈夫?」


「少しなら」


アポロンは椅子に座った。


窓を少し開ける。


冷たい空気が入ってくる。


手袋を椅子の背にかけた。


風が入るたび、布が揺れる。


しばらく待つ。


美咲は朝食を食べている。


アポロンは時計を見る。


「まだだな」


「そんなに気になる?」


「借りたものだから」


「真面目だね」


「そうなのか?」


「たぶん」


やがて、手袋が乾いた。


アポロンはそれを手に取った。


「行こう」


「うん」


駅へ向かう。


今日は昨日より暖かかった。


手袋は必要ない。


それでも、アポロンはポケットに入れていた。


仕事が始まる。


健一は仕込みをしていた。


「おはよう」


「おはよう」


アポロンは手袋を差し出した。


「ありがとう。昨日借りた」


「もう乾いた?」


「うん」


健一は受け取った。


「わざわざ持ってこなくてもよかったのに」


「借りたから」


「そうか」


健一は手袋を畳んで、棚に置いた。


それだけだった。


アポロンは少し拍子抜けした。


もっと何かあると思っていた。


けれど。


何もない。


借りた。


返した。


それで終わりだった。


仕事をしていると、佐藤が皿を運んできた。


「アポロンさん」


「何?」


「これ、昨日借りたペン」


黒いボールペンを差し出す。


「ありがとう」


「助かりました」


佐藤はそう言って、自分のポケットへ戻った。


アポロンはペンを見た。


借りたものは返ってくる。


返したものは、また誰かの手に戻る。


神だった頃には、こういうことを考えたことがなかった。


世界に存在するものは、最初からすべて自分の知る範囲にあった。


誰かに貸す必要もなかった。


誰かから借りる必要もなかった。


けれど。


人間の世界では違う。


持っていないものを借りる。


必要がなくなれば返す。


また必要になれば、誰かが貸してくれる。


それは、とても小さな仕組みだった。


昼休み。


アポロンは健一に聞いた。


「もし、借りたものを返さなかったら?」


「困るだろ」


「物がなくなるから?」


「それもあるけど」


健一は少し考えた。


「貸した側が、もう貸したくなくなるかもしれないな」


「信用がなくなる?」


「まあ、そういうこと」


アポロンは頷いた。


「物より、人との関係の方が大きいこともある」


「そうだな」


健一は味噌汁を飲んだ。


「だから、返せるものは返した方がいい」


アポロンはその言葉を覚えた。


帰宅すると、美咲が台所にいた。


「今日、手袋返した?」


「返した」


「よかったね」


「うん」


アポロンは少し考えた。


「返すって、不思議だな」


「何が?」


「物を返しているだけなのに、相手との関係も元の場所に戻る感じがする」


美咲は少し黙った。


「そうかもしれないね」


「借りたものを返す。それだけでいい」


「うん」


夕食のあと。


アポロンは自分の黒いボールペンを机の上に置いた。


美咲からもらったもの。


これは借りたものではない。


返す必要もない。


そう思ってから。


少しだけ考え直した。


「もらったものは、返さなくていいのか」


「基本的にはね」


「では、どうする?」


美咲は笑った。


「大事に使えばいいんじゃない?」


アポロンはペンを手に取った。


返す必要のないもの。


それでも。


もらったことを忘れないことはできる。


ペンを机の上に戻す。


明日の仕事で使う。


それだけで十分だった。


夜。


アポロンは布団に入った。


今日、返した手袋のことを考える。


もう自分の手元にはない。


けれど。


それを借りた時間は消えない。


人間は。


物を貸し借りしながら。


時間も、気持ちも、少しずつ渡しているのかもしれない。


アポロンは目を閉じた。


明日は、何を借りるのだろう。


あるいは。


誰かに何かを返す日になるのだろうか。


それは、まだ分からなかった。

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