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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第八十章 名前をつけないもの

休日の午後。


アポロンは窓際に座っていた。


テーブルの上には、昨日買った本がある。


まだ半分も読んでいない。


美咲は向かい側でスマートフォンを見ている。


しばらく、二人とも何も話さなかった。


窓の外を、風が通り過ぎる。


カーテンが少し揺れた。


「アポロン」


「何?」


「これ、見て」


美咲がスマートフォンを差し出した。


画面には、近所の公園の写真があった。


木の葉が少し赤くなっている。


「昨日より色が変わった」


「そうだな」


「今日、行ってみる?」


「行く」


二人で公園へ向かった。


休日だから、子どもや家族連れが多かった。


ベンチに座る人。


犬を散歩させる人。


走っている人。


それぞれが自分の時間を過ごしている。


アポロンは地面に落ちた葉を一枚拾った。


赤と茶色の間のような色だった。


「何の木?」


美咲が聞く。


「分からない」


「調べる?」


アポロンは葉を見た。


「いや」


「いいの?」


「名前を知らなくても、葉は葉だから」


美咲が少し笑った。


「それもそうだね」


アポロンは葉を手のひらに置いた。


神だった頃。


世界に存在するものには、すべて意味があった。


名前。


性質。


役割。


起源。


行き先。


知らないものはなかった。


今は違う。


目の前の木の名前も分からない。


この葉が何日後に落ちるのかも分からない。


隣を歩いている犬の名前も知らない。


けれど。


それで困ることはなかった。


しばらく歩く。


池の近くに、小さなベンチが空いていた。


二人で座る。


「静かだね」


美咲が言う。


「うん」


「何考えてる?」


アポロンは手の中の葉を見た。


「名前を知らないものが増えた」


「いいこと?」


「分からない」


「じゃあ、まだ分からなくていいんじゃない?」


アポロンは少し笑った。


「最近、それをよく言われる」


「だって、本当にそうだから」


風が吹く。


アポロンの手から葉が落ちた。


地面に落ちる。


そのまま、風に押されて少し遠くへ転がっていった。


アポロンは追わなかった。


「拾わないの?」


「もういい」


「大事じゃない?」


「大事だったわけではない」


「じゃあ、どうして拾ったの?」


アポロンは少し考えた。


「きれいだったから」


美咲は何も言わずに笑った。


二人はしばらく池を眺めていた。


帰り道。


小さな花屋の前を通る。


店先に、名前の書かれていない花が一束置かれていた。


「これ、何の花?」


美咲が店員に聞く。


店員が名前を答える。


美咲は頷いた。


アポロンは花を見た。


名前を知った。


けれど。


名前を知らなかった時と、花そのものは何も変わっていない。


「名前って、不思議だな」


「どうして?」


「知る前と、知った後で、もの自体は変わらない」


「でも、名前が分かると話しやすくなるよ」


「人も?」


「うん」


美咲がアポロンを見る。


「だから、名前って大事なんじゃない?」


アポロンは自分の名前を思い出した。


アポロン。


神だった頃から持っていた名前。


けれど。


今、その名前を呼ぶ人がいる。


「そうだな」


家に帰る。


夕食の前に、アポロンは公園で拾った葉を思い出した。


もう手元にはない。


写真も撮っていない。


名前も知らない。


ただ。


今日、公園で見た。


それだけだった。


それでも。


その葉があった時間は、確かに今日の中に残っている。


アポロンは窓の外を見た。


名前のないもの。


知らないもの。


覚えていないもの。


そのすべてを、無理に知る必要はない。


そう思えるようになっていた。


そして。


明日になれば、また何か一つ。


知らないものが増えるのだろう。


アポロンは、それを待つことにした。

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