第七十九章 朝の匂い
朝。
アポロンは目を覚ました。
まだ眠気が残っている。
布団から出ると、台所から小さな音が聞こえた。
「起きた?」
美咲だった。
「うん」
「朝ご飯できてるよ」
アポロンは台所へ向かった。
テーブルの上に、味噌汁と焼いたパンが置かれていた。
「今日は味噌汁?」
「昨日の残り」
「パンと味噌汁?」
「変?」
「少し」
「じゃあ、食べてみて」
アポロンは椅子に座った。
味噌汁を一口飲む。
温かい。
それからパンを食べる。
昨日食べたパンとは、少し違って感じた。
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
二人で朝食を食べる。
アポロンは味噌汁の湯気を見ていた。
その時。
ふと、匂いに気づいた。
「……何か焼いている?」
「パン?」
「違う」
美咲も鼻を動かした。
「分からない」
窓を少し開ける。
外から、香ばしい匂いが入ってきた。
少し甘い。
少し焦げたような匂い。
「近くのお店かな?」
「そうかもしれない」
アポロンは窓の外を見た。
けれど、どこから匂いが来ているのか分からなかった。
「昨日の音と同じだ」
「また?」
「分からないものがある」
美咲は笑った。
「じゃあ、今日も分からないままでいいんじゃない?」
アポロンは少し考えた。
「そうだな」
窓を閉める。
仕事へ向かう。
駅まで歩いていると、今度ははっきりと匂いがしてきた。
パンだった。
駅の近くに、小さなパン屋があった。
アポロンは立ち止まった。
「ここだったのか」
美咲が店を見る。
「最近できたんだよ」
「知らなかった」
「入ってみる?」
「うん」
店の中に入る。
焼きたてのパンが並んでいる。
店内は暖かかった。
アポロンは一つずつ見ていく。
「種類が多い」
「どれにする?」
「分からない」
「じゃあ、好きそうなの選べば?」
アポロンはしばらく考えた。
丸いパン。
細長いパン。
クリームの入ったパン。
チーズのパン。
最後に、小さな塩パンを手に取った。
「これにする」
「どうして?」
「匂いが良かった」
「なるほど」
会計を済ませる。
店を出る。
「今食べる?」
「仕事が終わってからにする」
「珍しい」
「楽しみにしておきたい」
美咲が笑った。
「じゃあ、なくさないようにね」
「分かった」
駅で別れる。
アポロンはパンを鞄に入れた。
仕事中。
何度かパンのことを思い出した。
まだ食べていない。
味は分からない。
どんな食感なのかも知らない。
ただ。
帰ったら食べられる。
それだけだった。
仕事が終わる。
駅へ向かう。
鞄の中からパンを取り出す。
袋を開ける。
まだ少し温かい。
一口食べる。
「……」
アポロンは黙った。
美咲が隣から見る。
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
「朝の匂いが、これだった」
「そうだね」
アポロンはもう一口食べた。
「匂いを知ってから食べるのと、知らずに食べるのは違うな」
「そう?」
「うん」
朝は、ただ知らない匂いだった。
今は、名前がある。
塩パン。
味も知った。
けれど。
朝に感じた、名前のない匂いも覚えている。
家に帰る。
夜。
アポロンは玄関に鞄を置いた。
今日の朝に知らなかった匂い。
知らなかった店。
知らなかったパン。
一日の中で、知らなかったものが少しずつ名前を持っていく。
けれど。
すべてに名前を付ける必要はない。
アポロンは窓を閉める。
外には、まだ知らない匂いがいくつもある。
それを確かめることなく。
今日は眠ることにした。




