第七十八章 知らない音
朝。
アポロンは駅のホームに立っていた。
電車を待っている。
いつもの時間。
いつもの場所。
けれど、今日は少し違った。
遠くから、聞き慣れない音が聞こえた。
「……何の音だ?」
美咲が振り返る。
「音?」
「今、聞こえなかったか?」
「何か鳴ってる?」
二人で耳を澄ます。
駅の向こう側から、金属を叩くような音が聞こえた。
カン。
カン。
カン。
しばらくして、音が止まる。
「工事かな?」
美咲が言った。
「そうかもしれない」
電車が来る。
二人は乗り込んだ。
仕事が始まる。
午前中は忙しかった。
昼休み。
アポロンは朝の音を思い出していた。
「どうした?」
健一が聞く。
「朝、変な音が聞こえた」
「駅の近く?」
「そう」
「工事じゃないか?」
「たぶん」
「気になるなら帰りに見てみれば?」
アポロンは少し考えた。
「そうする」
仕事が終わる。
アポロンは一人で駅の反対側へ向かった。
朝に聞いた場所。
けれど。
何もなかった。
工事をしている場所もない。
音もしない。
アポロンは周囲を見回した。
「……ない」
何かがあったはずなのに。
今は、何もない。
スマートフォンで時間を見る。
少し待ってみる。
それでも音は聞こえなかった。
「アポロン?」
後ろから声がした。
振り返る。
美咲だった。
「何してるの?」
「朝の音を探している」
「音?」
「うん」
「まだ気になってたんだ」
「何だったのか知りたい」
美咲は周囲を見る。
「何もないね」
「そうだな」
「じゃあ、帰ろうか」
アポロンは少し迷った。
「分からないままでもいい?」
美咲が笑った。
「いいんじゃない?」
「気にならない?」
「ちょっと気になるけど」
「それでも?」
「うん」
二人で駅へ戻る。
途中。
どこかの家から犬の鳴き声が聞こえた。
アポロンが振り返る。
「今の音は?」
「犬」
「それは分かる」
美咲が笑った。
「じゃあ、今日は一つ分かったね」
「そうだな」
駅に着く。
電車を待つ。
アポロンは朝の音を思い出していた。
分からない。
もう聞こえない。
けれど。
それで困ることはない。
神だった頃なら。
知らない音など存在しなかった。
世界のどこで、何が鳴っているのか。
すべて知っていた。
だから、知らないという状態そのものがなかった。
今は違う。
聞こえた音が何だったのか分からない。
それでも一日は続いていく。
電車が来る。
二人で乗る。
帰宅する。
夕食を食べる。
その途中で、美咲が言った。
「そういえば」
「何?」
「朝の音、何だったんだろうね」
アポロンは少し笑った。
「分からない」
「そっか」
「でも、もういい」
「珍しいね」
「全部を知る必要はないらしい」
美咲は少しだけ目を細めた。
「それ、前より人間らしくなったね」
アポロンは答えなかった。
ただ、窓の外を見た。
夜の街には、たくさんの音がある。
車。
電車。
人の声。
店の音。
遠くの犬。
どこかの家のテレビ。
そのすべてを聞き分けることはできない。
けれど。
今いる場所の音だけで、十分だった。
その夜。
ベッドに入る。
遠くから、また小さな音が聞こえた。
カン。
一度だけ。
アポロンは目を開けた。
少し考える。
そして。
何も確かめずに、目を閉じた。




