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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第七十六章 名前のない味

朝。


雨は止んでいた。


アポロンは窓を開けた。


冷たい空気が部屋に入ってくる。


「今日は晴れそうだね」


美咲が言った。


「そうだな」


「朝ご飯、昨日のパンでいい?」


「うん」


二人で朝食を食べる。


パンを一口食べて、アポロンは少し首を傾げた。


「どうしたの?」


「昨日より、味が違う」


美咲がパンを見る。


「同じパンだよ?」


「そうか」


もう一口食べる。


確かに同じだった。


けれど、昨日とは何かが違う。


「焼き方?」


「昨日も同じだったと思う」


「じゃあ、気分じゃない?」


アポロンは少し考えた。


「気分で味が変わるのか?」


「変わることもあるよ」


「不思議だな」


美咲は笑った。


「人間の舌も、毎日同じじゃないからね」


アポロンはパンをもう一口食べた。


今度は、少し美味しく感じた。


「さっきより美味しい」


「やっぱり気分じゃない?」


「そうかもしれない」


仕事へ向かう。


駅の売店で、アポロンは小さな菓子を見つけた。


昨日までは見たことがなかった。


新商品らしい。


手に取る。


「何それ?」


後ろから佐藤の声がした。


「知らない」


「じゃあ、買うんですか?」


「分からない」


「食べてみれば?」


アポロンは少し考えた。


買った。


昼休み。


包装を開ける。


佐藤が隣から覗いている。


「どうです?」


アポロンは一口食べた。


甘い。


少し酸っぱい。


何とも言いにくい味だった。


「どう?」


佐藤が聞く。


「分からない」


「美味しくない?」


「そういうわけでもない」


「じゃあ、美味しい?」


「それも、少し違う」


佐藤が笑う。


「何なんですか、それ」


アポロンも笑った。


「名前を付けにくい味だ」


「そんなことあります?」


「ある」


佐藤はもう一度笑った。


午後。


仕事が終わる。


アポロンは残った菓子を鞄に入れた。


家に帰る。


「おかえり」


「ただいま」


美咲が台所から顔を出す。


「今日は何か買ってきた?」


「これ」


アポロンが菓子を見せる。


「新商品?」


「そうらしい」


「食べてみようか」


二人で一つずつ食べる。


美咲が首を傾げた。


「……不思議な味」


「そうだろう?」


「美味しいような、そうでもないような」


「同じことを思った」


「じゃあ、もう一個食べる?」


アポロンは少し考えた。


「食べる」


二人で笑った。


もう一個食べる。


今度は少し美味しく感じた。


「さっきより美味しい」


「一緒に食べたからじゃない?」


アポロンは美咲を見る。


「一緒だと、味が変わる?」


「味そのものは変わらないよ」


「では?」


「感じ方が変わるんじゃない?」


アポロンは菓子を見た。


味そのもの。


温度。


香り。


空腹。


体調。


一緒にいる人。


その時の気分。


同じ食べ物でも、感じ方はいくつもある。


神だった頃。


味というものを知識として理解していた。


けれど。


知識には、「今日の自分がどう感じるか」という部分までは含まれていなかった。


「人間は、同じものでも毎回違って感じるんだな」


「そうかもね」


美咲は菓子を食べながら答えた。


「だから、また食べたくなるんじゃない?」


アポロンは少し考えた。


「なるほど」


夕食を終える。


食器を片付ける。


冷蔵庫を閉める。


今日も一日が終わっていく。


アポロンは、朝のパンを思い出した。


同じパンだった。


けれど、昨日とは違った。


今日食べた菓子も。


最初は分からない味だった。


もう一度食べると、少し違って感じた。


明日になれば、また違うかもしれない。


アポロンは、残った菓子を見た。


「明日、もう一つ食べよう」


美咲が笑う。


「気に入ったんじゃん」


「まだ分からない」


「じゃあ、明日分かるかもね」


アポロンは頷いた。


「そうだな」


名前のない味は、まだ名前のないままだった。


それでも。


もう一度食べてみようと思った。

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