第七十五章 同じ帰り道
翌日の朝。
アポロンは玄関で靴を履いていた。
昨日買った紺色の上着。
黒い手袋。
それから、いつもの鞄。
「今日も寒いね」
美咲が言った。
「昨日より少し暖かい」
「分かるの?」
「昨日の寒さを覚えている」
「なるほど」
二人で家を出る。
駅までの道は、いつもと同じだった。
角を曲がる。
信号を渡る。
小さな店の前を通る。
駅の階段を上る。
毎日通っている道だった。
けれど。
アポロンは最近、この道に少しずつ名前を付けていることに気づいた。
あの角。
あの自動販売機。
あの花屋。
あの信号。
最初は、ただ街の一部だった。
今は違う。
「ここ、昨日も通ったな」
「毎日通ってるよ」
「そうだった」
美咲が笑う。
駅で二人は別れた。
「じゃあ、また」
「うん」
アポロンは電車に乗った。
仕事をする。
昼になる。
客が来る。
料理を運ぶ。
皿を洗う。
午後になって、外を見ると雨が降り始めていた。
「雨か」
健一が窓を見る。
「傘、持ってきた?」
「持っている」
「さすがだな」
「昨日の天気予報を見た」
「人間らしくなったな」
健一が笑った。
仕事が終わる。
外へ出ると、雨は少し強くなっていた。
アポロンは傘を開く。
駅へ向かう。
改札を抜ける。
スマートフォンを見る。
美咲からメッセージはない。
昨日の話を思い出す。
『会えたら、一緒に帰ろう』
約束ではない。
だから、待つ必要もない。
そう思った。
電車を降りる。
改札へ向かう。
人の流れの中に、美咲の姿が見えた。
アポロンは足を止めた。
美咲もこちらに気づいた。
「いた」
「うん」
「今日、会えたね」
「そうだな」
二人で駅を出る。
雨はまだ降っている。
美咲が傘を開く。
アポロンも傘を開く。
二人は別々の傘を持って歩いた。
「一緒の傘に入る?」
美咲が聞いた。
「濡れるだろう」
「少しくらいなら大丈夫」
「それなら」
二人で一つの傘に入る。
少し狭い。
歩く速度も合わせなければならない。
アポロンが少し速くなると、美咲が遅れる。
美咲が速くなると、今度はアポロンが合わせる。
「歩きにくいね」
「そうだな」
「でも、まあいいか」
「うん」
しばらく歩く。
雨の音が傘に当たっている。
アポロンは、以前のことを思い出した。
初めて美咲に会った日。
雨が降っていた。
透明な傘。
「困ってそうだったから」
そう言って、美咲は傘を差し出した。
あの日。
アポロンは、人間の世界に来たばかりだった。
何も持っていなかった。
今は違う。
鞄がある。
財布がある。
スマートフォンがある。
仕事がある。
帰る場所がある。
そして。
隣を歩く人がいる。
「どうしたの?」
美咲が聞いた。
「最初の日のことを思い出していた」
「雨の日?」
「うん」
「懐かしいね」
「まだ、それほど時間は経っていない」
「でも、結構変わったよ」
アポロンは黙って歩いた。
確かに変わった。
けれど。
変わったのは、世界ではない。
自分の方だった。
家に着く。
玄関で傘を閉じる。
「明日も雨かな」
美咲が言った。
アポロンは窓の外を見た。
「分からない」
「そっか」
「でも、雨なら傘を持っていく」
美咲が笑った。
「それで十分だね」
アポロンも頷いた。
夕食を食べる。
テレビを見る。
雨の音を聞く。
特別なことは起こらない。
それでも。
アポロンは、今日の帰り道を覚えていた。
同じ道だった。
同じ駅だった。
同じ雨だった。
けれど。
昨日とは違う一日だった。
そして明日は。
また別の日になる。
それだけのことが。
今は少し楽しみだった。




