第七十三章 声のない時間
朝。
目覚ましが鳴る前に、アポロンは目を覚ました。
部屋は静かだった。
美咲はまだ眠っている。
アポロンは布団の中でしばらく天井を見ていた。
以前なら、目を覚ました瞬間に一日のすべてを知っていた。
今日、何が起こるのか。
誰が何を言うのか。
どんな天気になるのか。
どんな出来事が起きるのか。
今は、何も分からない。
けれど。
朝の静けさは、嫌いではなかった。
アポロンは起き上がった。
顔を洗う。
湯を沸かす。
コーヒーを入れる。
その音だけが、部屋の中に響いている。
美咲はまだ起きてこない。
アポロンはテーブルに二つのカップを置いた。
しばらく待つ。
やがて、寝室の扉が開いた。
「おはよう」
「おはよう」
美咲が眠そうな顔で出てくる。
「コーヒー?」
「うん」
「ありがとう」
二人でテーブルに座る。
会話はなかった。
テレビもつけなかった。
時計の音だけが聞こえる。
アポロンはカップを持ったまま、窓の外を見ていた。
「静かだね」
美咲が言った。
「うん」
「こういう時間、嫌い?」
「いや」
アポロンは少し考えた。
「好きかもしれない」
美咲はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、彼女が小さく欠伸をした。
アポロンは笑った。
「何?」
「いや」
「今、笑ったでしょ」
「少し」
「なんで?」
「分からない」
美咲も笑った。
静かな朝だった。
仕事へ行く時間になった。
駅まで歩く。
電車の中では、いつもより人が少なかった。
誰も話していない。
スマートフォンを見る人。
眠っている人。
窓の外を見る人。
それぞれが、自分の時間を過ごしている。
アポロンも窓の外を見た。
建物が流れていく。
知らない家。
知らない店。
知らない人。
神だった頃。
世界はすべて自分の中にあった。
今は、目の前を通り過ぎていくものを、ただ見るしかない。
それが不思議だった。
そして。
少し心地よかった。
仕事が始まる。
今日は忙しくなかった。
客が少ない。
健一もあまり話さない。
佐藤も黙って作業をしている。
店の中に、食器の音だけが響く。
アポロンは皿を拭いた。
一枚。
また一枚。
特別なことは何もない。
昼になっても、静かなままだった。
「今日は静かだな」
健一が言った。
「そうだな」
「こういう日もある」
「うん」
夕方。
仕事が終わる。
帰り道も、あまり話さなかった。
家に帰る。
美咲は夕食を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、静かだったね」
「そうだな」
「疲れた?」
「少し」
「じゃあ、今日は簡単なご飯にしよう」
「それがいい」
夕食は焼き魚と味噌汁だった。
二人で食べる。
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
また静かになる。
けれど。
その静けさは、以前とは違っていた。
何かを言わなければならないわけではない。
何かを決めなければならないわけでもない。
ただ隣にいる。
それだけで時間が続いていく。
食事が終わる。
アポロンが皿を洗う。
美咲が布巾を持つ。
言葉は少ない。
それでも、二人の間に何もないわけではなかった。
夜。
ベッドに入る。
アポロンは目を閉じる前に、今日一日を思い返した。
大きな出来事はなかった。
誰かを助けたわけでもない。
特別なものを見たわけでもない。
ただ、静かな朝があって。
静かな仕事があって。
静かな夕食があった。
神だった頃には、世界のすべてが分かっていた。
けれど。
すべてを知っていることと。
誰かと静かな時間を過ごすことは、同じではなかった。
アポロンは目を閉じた。
何も起こらない夜だった。
だからこそ。
そのまま眠ることができた。




