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神様は、明日を知らない』 ――全知全能の神が、人間になった理由――  作者: 亀


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第七十二章 忘れたこと

朝。


アポロンは玄関で靴を履いていた。


「今日、帰りに牛乳お願い」


美咲が言った。


アポロンは振り返った。


「分かった」


「あと、卵も」


「分かった」


「二つね」


「覚えている」


美咲は笑った。


「じゃあ、よろしく」


アポロンは頷いた。


駅へ向かう。


電車に乗る。


仕事をする。


午前中は、いつも通りだった。


昼になり、健一が注文を確認する。


「アポロン、これ持っていって」


「分かった」


皿を持って客席へ向かう。


その途中で、別の仕事を思い出した。


テーブルの片付け。


水の補充。


それから――。


アポロンは一瞬立ち止まった。


「……何だった?」


自分でも分からなかった。


厨房へ戻る。


「どうした?」


健一が聞いた。


「今、何かをしようとしていた」


「何を?」


「それが分からない」


健一が笑った。


「忘れたんだろ」


「忘れた?」


「人間なら普通だよ」


アポロンは黙った。


忘れる。


その言葉を知っている。


人間の記憶が曖昧になることも。


思い出せないことも。


すべて知っている。


けれど。


自分が何かを忘れて、それを思い出せない。


それは初めてだった。


「困るな」


「そんなに困る?」


「自分が何を考えていたのか分からない」


「じゃあ、あとで思い出すかもしれない」


「思い出さないかもしれない」


「それもあるな」


健一は笑って、仕事に戻った。


午後。


アポロンは皿を洗っていた。


すると突然、思い出した。


「水の補充だ」


「今?」


「今」


「もう誰かやったよ」


「そうか」


アポロンは少し考えた。


思い出した。


でも、もう必要なくなっていた。


それが少し面白かった。


仕事が終わる。


スーパーへ向かう。


牛乳。


卵。


買い物かごに入れる。


レジへ向かう途中。


アポロンは立ち止まった。


「……パン」


昨日の朝に食べたパンを思い出した。


今日は買わなくてもいい。


そう思って、そのままレジへ向かった。


家に帰る。


「おかえり」


美咲が言った。


「ただいま」


「買ってきた?」


「牛乳と卵」


「ありがとう」


美咲が袋を確認する。


「ちゃんと二つある」


「覚えていた」


「よかった」


アポロンは少し安心した。


「でも、今日仕事中に一つ忘れた」


「何を?」


「分からない」


美咲が笑った。


「忘れたことを忘れたの?」


「そういうことになる」


「じゃあ、仕方ないね」


「仕方ない?」


「うん。思い出せないなら、もういいんじゃない?」


アポロンは少し考えた。


「忘れたことまで、覚えていなくてもいいのか」


「全部覚えてなくても大丈夫だよ」


「でも、知っていたことを失う」


「そういうこともあるよ」


美咲は冷蔵庫に牛乳を入れた。


「だから、写真を撮ったり、メモしたりするんじゃない?」


「記憶を外に置くのか」


「うん。全部、自分の頭の中に置いておく必要はないから」


アポロンはスマートフォンを見た。


写真。


メモ。


連絡先。


人間は、自分の記憶だけを頼りにしているわけではない。


知らないことを誰かに聞く。


忘れたことをメモする。


分からないことを調べる。


自分一人で全部を持たなくても、生活は続いていく。


夕食のあと。


美咲が明日の予定をメモしていた。


「何を書いている?」


「明日、帰りに買うもの」


「また?」


「忘れるから」


アポロンは少し笑った。


「人間は、忘れることを前提にしているんだな」


「そうかもね」


美咲も笑った。


その夜。


アポロンはベッドに入った。


今日、忘れたことは結局思い出せなかった。


けれど。


それで何かが壊れたわけではない。


思い出せないものが一つあっても。


明日は来る。


アポロンは目を閉じた。


そして、明日のことを一つだけ覚えていた。


新しい上着を着て出かけること。


それだけで十分だった。

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